がん患者さんにとって笑うことの意味とその効果について
がんと向き合う患者さんにとって、「笑い」は単なる娯楽を超えた意味を持ちます。近年の医学研究により、笑うことで免疫システムが活性化され、がんと闘う力をサポートする可能性が明らかになってきました。
私たちの体内では毎日約3,000~6,000個のがん細胞が生まれているとされますが、健康な人は免疫システムによってこれらの異常細胞を排除しています。その中核を担うのが、ナチュラルキラー(NK)細胞という免疫細胞です。
大阪府による先駆的研究から始まった笑いと免疫の関係性
1992年、大阪府による画期的な実験が行われました。がんや心臓病を患う19人の患者さんに新喜劇や漫才を見せ、笑う前と後でNK細胞の活性がどう変化するかを調べた研究です。この実験は大阪府発行の「大阪発笑いのススメ」という公的資料に記録されています。
実験の結果は興味深いものでした。笑う前にNK活性の数値が低かった人は、すべて正常範囲まで上昇し、高かった人の多くも正常近くの数値に下がることが確認されました。さらに、楽しくない状況でも作り笑いをした場合でも、NK活性が正常に力を発揮できる状態になることも分かりました。
大阪国際がんセンターによる最新の実証研究結果
2017年5月から、大阪国際がんセンターは吉本興業、松竹芸能、米朝事務所と協力し、「笑いとがん医療の実証研究」を実施しました。この研究は「わろてまえ劇場」と名付けられ、2週間に1回、計8回にわたって院内のホールで落語や漫才を開催しました。
研究には60名のがん患者さんが参加し、笑いの舞台を鑑賞したグループと鑑賞しなかったグループに分けて比較されました。2018年5月に発表された結果によると、鑑賞したグループではNK細胞を活性化するタンパク質を作る能力が平均で1.3倍上昇し、NK細胞自体も増加する傾向が見られました。
さらに注目すべきは、患者さんの心理面での変化です。緊張、抑うつ、疲労などの6項目すべてで改善が認められ、がんに伴う痛みについても改善が確認されました。この研究結果は、笑いが単なる気分転換以上の医学的効果を持つことを示しています。
笑いが免疫システムに与える科学的メカニズム
私たちが笑うと、脳の間脳にある免疫コントロール機能が興奮し、神経ペプチドという情報伝達物質が活発に生産されます。この「善玉」の神経ペプチドが血液やリンパ液を通じて全身に流れ、NK細胞の表面に付着してこれを活性化します。
NK細胞は体内に50億個存在し、がん細胞やウイルスに感染した細胞を見つけ次第攻撃する「免疫の要」です。わずか5分間笑うだけでNK細胞が活性化されるのに対し、注射による活性化には3日を要するとされています。
一方で、悲しみやストレスなどのマイナス感情は、NK細胞の働きを鈍らせ、免疫力を低下させることも明らかになっています。阪神・淡路大震災後の被災者調査では、震災から1年経過してもNK活性が低いままという報告もありました。
海外で注目されたノーマン・カズンズさんの体験談
アメリカのノーマン・カズンズさんは、1964年に強直性脊椎炎という難病にかかりました。確立された治療法がない中、彼はビタミンCの大量投与と「10分間大笑いする方法」を実行しました。連日続けた結果、苦しい痛みが和らぎ、歩けるようになり、数か月後には職場復帰できるまで回復しました。
1980年に心筋梗塞を患った際も、再び笑うことを中心としたプラス思考を持ち続け、心筋梗塞を克服したという記録が残っています。このような体験談は、笑いが難病克服の要素となる可能性を示唆しています。
近畿大学による最新研究データ
2023年8月に発表された近畿大学医学部と吉本興業の共同研究では、がん経験者50人を対象に、お笑いDVDを毎日15分以上、4週間鑑賞してもらい、その効果を検証しました。結果として、健康関連の生活の質(QOL)、抗酸化能力、不安、うつなどの改善効果が確認されました。
この研究は、がん経験者の健康関連の生活の質向上に向けた「笑い」の新たな効果的活用に期待が寄せられています。
免疫細胞の特性と笑いの効果の限界
NK細胞は確かに重要な免疫細胞ですが、体温のように一定の範囲内で変動するものです。健康な状態では大きく変化することは少なく、病気の要因になるほど低下することは生命に関わる状況です。
つまり、笑いによってNK活性が高まっても、がんを根本的に治療できるほどの劇的な変化は期待できません。もし笑いだけで免疫力が大幅に向上するなら、生活習慣が乱れていても楽観的で毎日笑っている人は、がんにならないはずです。
ストレス軽減と自律神経のバランス改善効果
笑いの最も重要な効果は、ストレス軽減と自律神経のバランス改善にあります。笑うと交感神経が優位になった後、急激に副交感神経が優位になることで、自律神経の働きが整います。これにより、幸せホルモンと呼ばれるセロトニンなどの脳内ホルモンが分泌され、免疫の大敵であるストレスが軽減されます。
順天堂大学の調査では、ストレスを受けるとNK細胞の活性が低下することが確認されており、逆にストレスを上手に受け流すことができる人は、NK細胞の活性を維持しやすいことが分かっています。
医療現場で広がる笑い療法の活用
現在、医療や介護の現場では「笑い療法士」という民間資格を持つ専門家が活躍しています。一般社団法人癒しの環境研究会が2005年から養成を始め、これまでに医療・介護従事者を中心に約1,000人が資格を取得しています。
がんなどの重い疾患にかかった場合、多くの人はショックを受けて気落ちしがちです。そうした人に寄り添って安心して笑顔になってもらい、活力を引き出すのが療法士の役割です。
笑いヨガという新しいアプローチ
最近注目されているのが「笑いヨガ」です。笑いの体操とヨガの呼吸法を組み合わせた健康法で、無言で運動するより酸素を多く取り込むことができ、気分も晴れやかになります。楽しみながらできるため、きつい運動も続けやすいという利点があります。
無理をしない笑いの取り入れ方
笑いには健康効果がありますが、無理に笑うことはストレスになります。本当に辛いときや希望を持てないときには、笑うことは困難です。そんなときに「これから漫才を見せるから笑おう」と言われても、内容が頭に入ってこないでしょう。
がんの告知を受けた直後などは、どう闘うか、仕事をどうするか、家族にどう伝えるかなど、真剣に考えることが重要です。心配事があるときは、それを解決することが先決です。
休息の時間に、ほっとひと息つける笑いがあれば、それを求めればよいのです。笑いたいときに笑う、笑顔を忘れているなと気づいたときに笑顔を作る、それが自然で健康的な笑いの取り入れ方です。
認知症予防にも効果的な笑いの力
大阪府立健康科学センターが健診を受けた八尾市の住民を調べた結果、65歳以上の985人のうち、ほとんど笑う機会がない人は、ほぼ毎日笑う人に比べて認知機能が低下する危険性が2.15倍も高いことが分かりました。
この結果は、笑いが脳の健康維持にも重要な役割を果たすことを示しています。
作り笑いでも効果がある理由
興味深いことに、作り笑いでも免疫力を高める効果があることが実験で確認されています。アメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームズは「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい」という言葉を残しました。
実際に、NK細胞の働きが弱い人や基準値の人が作り笑顔を続けた後に、NK細胞が活性化するという実験結果が出ています。笑う機会がないときは、鏡に向かって「あ・は・は・は」と笑うことも有効です。
日常生活に笑いを取り入れる具体的な方法
日本笑い学会副会長で医師の昇幹夫さんは、「落語のDVDを聴くのもいいし、寄席に足を運んでもいい。好きなことをやれば笑顔になれる」とアドバイスしています。
家族や友人との楽しいおしゃべり、笑顔でのあいさつ、自分の好きなことに熱中することなど、自然に笑顔になれる環境作りが大切です。カラオケ好きな人が熱唱するとNK細胞が活性化するという実験結果もあります。
笑いの医学的効果に関する今後の展望
現在も各地で笑いの医学的効果に関する研究が続けられています。糖尿病患者の血糖値改善、関節リウマチ患者の症状緩和など、様々な疾患への効果が報告されています。
ただし、笑いはあくまで補完的な役割であり、根本的な治療に代わるものではありません。適切な医学的治療を受けながら、心身の健康をサポートする手段として笑いを活用することが重要です。
まとめ
がんと笑いの関係について、様々な研究により免疫機能への好影響が確認されています。しかし、最も大切なのは無理をしないことです。自然に笑える環境を作り、ストレスを軽減し、心身のバランスを保つことが、がんと向き合う上で重要な要素となります。
笑いは薬ではありませんが、治療を支える力になり得ます。一人ひとりが自分らしい方法で笑いを生活に取り入れ、前向きな気持ちを育むことが、健康的な日々を送る助けとなるでしょう。