セレンとは何か
セレン(セレニウム)は1817年に発見された必須微量元素で、人間の体内には体重1kg当たり約250μg、全体で10mg程度しか存在しません。ギリシア語の月(selene)にちなんで名付けられたこのミネラルは、抗酸化反応において重要な役割を担っています。
日本の土壌はセレンが豊富であるため、日本で栽培される穀物や農作物には自然にセレンが含まれています。また、日本人が日常的に摂取する魚介類もセレンの良い供給源となっているため、通常の食事では不足することはありません。
セレンの基本的な働き
セレンは過酸化水素やヒドロペルオキシドを分解するグルタチオンペルオキシターゼの構成成分です。この酵素はビタミンEやスーパーオキシドジスムターゼ(SOD)と協力して、体内の抗酸化システムを支えています。
さらに、セレンはアスコルビン酸の再生や甲状腺ホルモンの活性化と代謝に関係する酵素の構成成分でもあります。これらの働きにより、セレンは私たちの健康維持に欠かせない栄養素となっています。
がんとセレンの関係性:2025年最新研究動向
セレンとがんの関係について、2025年の最新研究では複雑な関係性が明らかになっています。従来考えられていた単純な「セレンががんを予防する」という考え方から、より詳細なメカニズムが解明されてきました。
セレンタンパク質とがん細胞の複雑な関係
京都大学医学研究科の研究では、25種類のセレンタンパク質に細胞死を抑制する働きがあることが確認されました。特に「PRDX6」と呼ばれるセレンタンパク質は最も抑制効果が高く、他の種類のセレンタンパク質の合成も促進することが分かっています。
興味深いことに、膵臓がんと肝臓がんでは、がん組織にPRDX6が多いほど患者さんの生存率が低くなる傾向があることも明らかになりました。これは、セレンが常にがん予防に働くわけではないことを示しています。
肝がん細胞のセレン代謝変化
2025年8月に発表された東北大学の研究では、肝がん細胞が「セレン代謝」を組み替えて細胞死を回避する仕組みが解明されました。
肝細胞がんでは、酸化ストレスに応答する転写因子NRF2により、セレンを細胞外に運ぶタンパク質セレノプロテインP(SeP)が減少します。この減少により、細胞内のセレンが増え、抗酸化作用を持つタンパク質が増加し、その結果、がん細胞は酸化ストレスによる細胞死(フェロトーシス)に対して抵抗性を高めることが判明しています。
トリプルネガティブ乳がんとセレン
2024年に発表されたイギリスがん研究機構の研究では、セレンが不足するとがん細胞はフェロトーシスという自己破壊メカニズムで死滅しやすくなることが分かりました。
トリプルネガティブ乳がん細胞は集団でいるときはオレイン酸を含む脂肪分子を産生してフェロトーシスから身を守りますが、転移のために単独で血中を移動している時はセレン不足に対してより脆弱になります。この発見は、がんの転移を防ぐ新しい治療法の開発につながる可能性があります。
セレンの適切な摂取量と日本人の摂取状況
日本人の食事摂取基準(2025年版)
厚生労働省は「日本人の食事摂取基準(2025年版)」において、セレンの摂取基準を以下のように定めています。
年齢 | 男性推奨量(μg/日) | 女性推奨量(μg/日) | 耐容上限量(μg/日) |
---|---|---|---|
18-29歳 | 30 | 25 | 350 |
30-49歳 | 30 | 25 | 400 |
50-64歳 | 35 | 25 | 450 |
65歳以上 | 35 | 25 | 450 |
妊娠中は30μg、授乳中は45μgが推奨量とされています。
日本人の実際の摂取状況
日本人の平均摂取量は約100μg/日とされており、これは推奨量を大きく上回っています。この理由として以下の要因が挙げられます:
日本の土壌は適度なセレンを含んでいるため、日本で育つ農作物や飼料には相応のセレンが含まれています。また日本人が日々の食生活のなかで、セレンを多く含む魚介類を頻繁に摂取していることも理由の一つです。
加えて、日本人が多く消費している小麦製品や肉類には、土壌のセレン濃度の高い北米で採れた小麦や家畜飼料を利用しているものが多いことも、充分な摂取量を確保できている背景にあります。
セレンを多く含む食品と効率的な摂取方法
セレンは様々な食品に含まれていますが、特に以下の食品に豊富に含まれています:
セレン含有量の多い食品
食品名 | 100g当たりのセレン含有量(μg) |
---|---|
たらこ | 130 |
うなぎ(蒲焼) | 68 |
まいわし | 68 |
かつお | 57 |
まぐろ(赤身) | 52 |
豚ヒレ肉 | 21 |
納豆 | 16 |
玄米 | 3 |
うなぎやまいわしは1食あたり34μgのセレンが含まれているため、摂取目安量を摂るのにちょうどよい量と言えるでしょう。
バランスの良い摂取のポイント
セレンの効果的な摂取には以下のポイントがあります:
食品中のセレンの多くは、たんぱく質に結合して存在し、その吸収はたんぱく質の吸収と同時に行われると考えられています。消化管からの吸収率は50%以上と、高値を示します。
セレンの抗酸化作用は脂質ラジカルの生成を防ぐビタミンEと一緒に摂取することでより効果が発揮されます。したがって、魚類や肉類などのたんぱく質源と、ビタミンEを含む食品を組み合わせることが理想的です。
セレン摂取の注意点とリスク
過剰摂取による健康リスク
セレンは毒性が強く、必要量と中毒量の差がとても小さいため、サプリメントなどの安易な摂取には注意が必要です。
セレンを慢性的に過剰摂取すると、爪の変形や脱毛、胃腸障害、下痢、疲労感、焦燥感、末梢神経障害、皮膚症状などがみられます。
さらに深刻な場合、セレンをグラム単位で摂取すると、重症の胃腸障害、神経障害、心筋梗塞、急性の呼吸困難、腎不全などを引き起こします。
最新研究で明らかになった健康への影響
近年の研究では、セレンを過剰に摂取すると2型糖尿病のリスクが上昇する可能性があると報告されています。適量のセレンはインスリンの働きを助けますが、過剰になると逆に血糖調節を妨げることが示唆されています。
セレンは抗酸化作用を持つため、一部のがん予防に効果があると考えられています。しかし、過剰摂取した場合、前立腺がんや皮膚がんのリスクが高まる可能性があるとの研究結果も報告されています。
サプリメント摂取時の注意
ブラジルナッツを例にすると、1粒(約5g)に約100μgのセレンが含まれています。そのため、数粒食べるだけで上限量に近づくことが分かります。このように、特定の食品やサプリメントに頼った摂取は過剰摂取のリスクを高めます。
がん予防におけるセレンの適切な位置付け
エビデンスに基づいた現在の見解
現在、セレン摂取を増やすことによって癌発症リスクを低下できるという仮説に、疫学的エビデンスによる裏付けはありません。
質の高いランダム化比較試験すべてが、癌の全体的な発症リスクや最も多く検討されていた前立腺癌をはじめとする特定の癌発症リスクの低下に対して、セレンによる効果はないと報告しています。
ベトナムで実施された大規模な症例対照研究では、セレン摂取とがんリスクの間にU字型の関連が認められました。これは、セレンが少なすぎても多すぎても健康に良くないことを示しています。
日本人にとっての実践的アドバイス
日本人の場合、通常の食事でセレンの必要量は充分に摂取できているため、特別な対策は不要です。重要なのは以下の点です:
1. バランスの良い食事を心がけ、魚介類や肉類、穀物を適度に摂取する
2. サプリメントでの追加摂取は基本的に不要
3. セレン含有量の高い特定食品の過度な摂取は避ける
今後の研究の方向性と期待
特定の遺伝的特徴をもつ人または特定の栄養状態にある人では、セレンが癌のリスクに影響を与えるかどうかを評価するための研究や、セレン化合物のさまざまな化学組成が、癌発症リスクに対してどのように異なる影響を与えるのかを判断するための研究がさらに必要とされています。
中国のようなセレン強化食品の人気が高く、地域によってはセレン欠乏が続いている国々では、セレン化合物のがん治療や化学予防に関する臨床研究の重要性が指摘されています。
日本においては、現在の充足した摂取状況を維持しながら、過剰摂取による健康リスクの回避が重要な課題となっています。
結論
2025年の最新研究により、セレンとがんの関係は従来考えられていたよりも複雑であることが明らかになりました。単純な「セレンががんを予防する」という考え方ではなく、適切な量の摂取が重要であることが分かっています。
日本人の多くは通常の食事で必要量を上回るセレンを摂取できているため、追加的なサプリメント摂取は推奨されません。むしろ、バランスの良い食事を心がけ、過剰摂取を避けることがセレンとの適切な付き合い方と言えるでしょう。
参考文献・出典情報
1. 東北大学:肝がん細胞が「セレン代謝」を組み替えて細胞死を回避する仕組みを解明
2. 京都新聞:「セレンタンパク質」多いがん患者、予後が悪い傾向に
3. QLifePro:肝細胞がんの細胞死回避メカニズムを解明
4. Cancer Research UK:Selenium: Could a common mineral help prevent the spread of cancer?
5. Scientific Reports:A U-shaped association between selenium intake and cancer risk
6. Cochrane:Selenium for preventing cancer
7. 国立健康・栄養研究所:セレン - 健康食品の安全性・有効性情報
9. Frontiers in Oncology:Selenium in cancer management: exploring the therapeutic potential