肝腎症候群とは:肝臓がんに伴う急性腎不全の病態
肝腎症候群とは、進行した肝硬変や肝細胞がんを患っている患者さんが発症する、生命を脅かす重篤な急性腎不全です。特に肝硬変が進行している患者さんや、黄疸がひどい肝臓がんの患者さんに起こりやすく、腎臓そのものに明らかな構造的異常がないにもかかわらず、腎機能が急激に低下する機能的な腎障害を特徴とします。
この病態では、尿の量が著しく減少し、腎臓が十分に機能しなくなります。その結果、窒素化合物などの老廃物が血液中に蓄積し、血中のミネラルバランスも崩れ、放置すると昏睡状態に陥る危険性があります。肝腎症候群は肝臓病における最も恐ろしい合併症の一つとされており、早期の診断と適切な治療が患者さんの生命予後を大きく左右します。
最新の診断基準:従来の分類からHRS-AKI診断基準への転換
肝腎症候群の診断基準は近年大きく変更されました。これまで使用されていた「タイプ1型」「タイプ2型」という分類から、2015年以降は国際腹水クラブ(International Club of Ascites, ICA)により「HRS-AKI(急性腎障害を伴う肝腎症候群)」という新しい診断概念に統一されました。
HRS-AKI診断基準では、血清クレアチニン値のわずかな上昇(0.3mg/dL以上の増加)でも早期に診断し、迅速な治療介入を可能にすることを目的としています。具体的な診断基準は以下の通りです:
AKI病期 | 血清クレアチニン値の変化 | 特徴 |
---|---|---|
Stage 1a | ベースラインから0.3mg/dL以上増加、かつ1.5mg/dL以下 | 軽度の腎機能低下 |
Stage 1b | ベースラインから0.3mg/dL以上増加、かつ1.5mg/dLを超える | 中等度の腎機能低下 |
Stage 2 | ベースラインから2~3倍の増加 | 重度の腎機能低下 |
Stage 3 | ベースラインから3倍以上増加、または4.0mg/dLを超える | 最重度の腎機能低下 |
診断には、2日連続での利尿薬中止とアルブミン投与(1g/kg体重、最大100g)による体液補正を行っても、血清クレアチニン値が1.5mg/dL以下に改善しないことが条件とされています。また、直近でのNSAIDs(非ステロイド性抗炎症薬)、アミノグリコシド系抗生物質、造影剤などの腎毒性物質の使用がないことも重要な除外条件です。
肝腎症候群の発症メカニズム:肝臓の異常が腎不全を引き起こす理由
なぜ肝臓の病気によって腎不全が発症するのか、その詳細なメカニズムは完全には解明されていませんが、現在のところ以下のような病態生理が考えられています。
肝硬変や肝細胞がんが進行すると、門脈圧亢進症が起こります。これにより内臓血管が拡張し、有効循環血液量が相対的に減少します。体はこの状況を補おうとして、レニン・アンギオテンシン・アルドステロン系や交感神経系を活性化させます。しかし、このような神経ホルモンシステムの長期間にわたる活性化は、腎血管の強い収縮を引き起こし、腎血流量の著しい低下をもたらします。
さらに、低アルブミン血症も病態の悪化に関与します。アルブミンは血管内の水分を保持する重要な働きを持っているため、その低下は有効循環血液量のさらなる減少を招きます。これらの複合的な要因により、腎臓への血流が極度に減少し、急性腎不全が発症すると考えられています。
日本における肝腎症候群の標準治療:ノルアドレナリンとアルブミンの併用療法
日本における肝腎症候群の標準的な治療は、集中治療室での管理下において、血管収縮薬であるノルアドレナリンと血漿増量剤であるアルブミンを併用して持続的に静脈投与する治療法です。これは欧米諸国で標準薬とされているテルリプレシンが、日本では肝腎症候群の治療薬として承認されていないためです。
治療の具体的な流れは以下の通りです:
まず、循環血液量を確保するためにアルブミン製剤を投与します。初日は体重1kgあたり1gのアルブミンを投与し、その後は1日20~40gを継続投与します。同時に、腎血管の収縮を改善し腎血流を増加させるために、ノルアドレナリンを持続的に静脈投与します。
また、治療と並行して、肝腎症候群の誘因となることが多い感染症、特に特発性細菌性腹膜炎(SBP)の検索と治療も重要です。感染症が確認された場合は、適切な抗生物質による治療を迅速に開始します。さらに、腎毒性のある薬剤(NSAIDs、ACE阻害薬、利尿薬など)は直ちに中止します。
テルリプレシンによる肝腎症候群治療:国際的動向と日本への影響
テルリプレシンは、バソプレシンV1受容体作動薬として血管収縮作用を持つ合成バソプレシン類似体です。欧米では肝腎症候群の第一選択薬として広く使用されており、2022年には米国FDAによって肝腎症候群の治療薬として初めて承認されました。
CONFIRM試験と呼ばれる大規模臨床試験では、テルリプレシンとアルブミンの併用療法により、プラセボ群と比較して有意に腎機能の改善が認められました。具体的には、テルリプレシン群の32%で肝腎症候群の改善が確認されたのに対し、プラセボ群では17%でした。さらに、全身性炎症反応症候群を合併した患者さんでは、テルリプレシン群の37%で改善が見られた一方、プラセボ群では6%にとどまりました。
しかし、テルリプレシンには呼吸器系の有害事象が発生しやすいという課題があります。CONFIRM試験では、呼吸不全による90日以内の死亡がテルリプレシン群で11%、プラセボ群で2%に認められました。このため、日本では現在も慎重な検討が続けられており、2025年現在でもテルリプレシンの肝腎症候群に対する保険適用は承認されていません。
日本肝臓学会の2026年春改訂予定の肝硬変診療ガイドラインでは、テルリプレシンの治験情報なども含めた最新の情報が盛り込まれる予定です。今後、国内での治験結果や安全性データの蓄積により、日本でもテルリプレシンが使用可能になる可能性があります。
TIPS:経頸静脈肝内門脈大循環シャント術の役割
TIPS(経頸静脈肝内門脈大循環シャント術)は、肝腎症候群に対する追加的な治療選択肢として検討される場合があります。この手技は、頸静脈からカテーテルを挿入し、肝静脈と門脈をつなぐ人工的な短絡路(シャント)を作成する治療法です。
TIPSにより門脈圧を低下させることで、有効循環血液量の改善と腎血流の回復が期待できます。しかし、TIPSは技術的に難易度が高く、肝性脳症などの合併症のリスクもあるため、慎重な適応判断が必要です。肝硬変診療ガイドラインでは、薬物療法に反応しない難治性の肝腎症候群に対して、TIPSの実施を検討することが推奨されています。
肝腎症候群の予後と肝移植の重要性
肝腎症候群の予後は依然として厳しく、治療を受けない場合の生存期間は極めて短いとされています。従来のタイプ1型肝腎症候群では、肝移植を実施しない場合の6か月後の生存率は約10%と報告されています。一方、薬物療法により腎機能の改善が得られた患者さんでは、予後の改善が期待できます。
肝腎症候群に対する唯一の根治的治療法は肝移植です。薬物療法は腎機能を一時的に回復させる「ブリッジ治療」としての役割が重要であり、肝移植を受けるまでの期間の生命維持を目的とします。肝移植後は、多くの患者さんで腎機能の改善が期待できますが、腎機能低下の程度によっては同時腎移植が必要になる場合もあります。
肝腎症候群の予防:感染症管理と薬剤選択の重要性
肝腎症候群の発症を予防するためには、基礎にある肝疾患の適切な管理と、誘因となりうる要因の回避が重要です。特に以下の点に注意が必要です:
感染症の早期発見と治療が最も重要です。特発性細菌性腹膜炎(SBP)は肝腎症候群の最も一般的な誘因であり、腹水検査による定期的な監視と、感染が疑われた場合の迅速な抗生物質治療が必要です。SBPを発症した患者さんには、肝腎症候群の発症予防を目的としてアルブミンの投与が推奨されています。
薬剤の慎重な選択も重要です。NSAIDs、ACE阻害薬、利尿薬などの腎毒性を有する薬剤は避ける必要があります。また、造影剤を使用した検査を行う際は、腎機能への影響を十分に検討し、必要に応じて事前の水分負荷や造影剤腎症の予防措置を行います。
日本における肝疾患の変化と肝腎症候群への影響
日本の肝疾患の背景は近年大きく変化しています。従来はC型肝炎ウイルス(HCV)とB型肝炎ウイルス(HBV)による肝硬変が主体でしたが、効果的な抗ウイルス治療の普及により、ウイルス性肝硬変は著しく減少しています。
一方で、非アルコール性脂肪肝炎(NASH)や代謝性機能障害関連脂肪性肝疾患(MAFLD)を背景とした肝硬変が増加しており、これらの患者さんにおける肝腎症候群のリスクと管理方法についても注目されています。生活習慣病を背景とした肝疾患では、糖尿病性腎症などの併存により、肝腎症候群の病態がより複雑化する可能性があり、今後の研究課題となっています。
最新の研究動向と将来展望
肝腎症候群の治療における最新の研究では、血管収縮薬以外のアプローチも検討されています。炎症反応を制御する治療法や、腎保護作用を有する薬剤の研究が進められており、将来的にはより効果的で安全な治療選択肢が登場する可能性があります。
また、人工肝補助装置や再生医療技術の発展により、肝機能を代替・補助する治療法の研究も活発に行われています。これらの技術が実用化されれば、肝移植待機期間中の患者さんの予後改善に大きく貢献することが期待されます。
診断面では、新しいバイオマーカーの開発により、肝腎症候群をより早期に、かつ正確に診断できる可能性があります。尿中の特定の蛋白質や代謝産物を測定することで、従来の血清クレアチニン値よりも早期に腎機能低下を検出できる技術の研究が進んでいます。
まとめ
肝腎症候群は確かに重篤な病態ですが、早期発見と適切な治療により改善の可能性があります。肝硬変や肝臓がんの患者さんは、定期的な検査により腎機能の変化を監視し、わずかな異常でも見逃さないことが重要です。
感染症の予防と早期治療、腎毒性のある薬剤の回避、適切な栄養管理など、日常的な健康管理が肝腎症候群の予防につながります。また、症状の変化(尿量の減少、むくみの増悪、意識状態の変化など)があった場合は、迅速に医療機関を受診することが重要です。
参考文献・出典情報
1. American Liver Foundation - 肝腎症候群
2. JapaneseHealth.org - 高い致死率を伴う肝腎症候群とは?原因・最新の診断基準・日本の治療法を専門医が徹底解説
4. The New England Journal of Medicine 日本版 - 肝腎症候群 1 型の治療のためのテルリプレシンとアルブミンの併用
5. 国立がん研究センター がん情報サービス - 肝臓がん(肝細胞がん)
6. 日経メディカル - 2026年春の改訂で肝硬変診療ガイドラインはどう変わる?