近年、医療関係者や患者さんの間で注目を集めている「がんゲノム医療」について、分かりやすく解説します。
専門用語が多く「いまいち理解できない」という方も多いこの分野を基礎知識から最新動向まで詳しくお伝えします。
がんゲノム医療とは何か?基本的な考え方
ゲノムとは何を指すのか
まず基本となる「ゲノム」について説明します。私たちの体を構成する細胞の核の中にはDNAが存在し、そこに刻まれた生命に関する情報を「ゲノム」と呼びます。このゲノムは、いわば体の設計図のような役割を果たしており、一人ひとり異なる情報を持っています。
体の設計図といえるゲノムに刻まれている「遺伝子の配列」を調べるのが「遺伝子検査」です。遺伝子検査によって「その人固有の遺伝子情報」が明らかになります。
がんゲノム医療の定義と特徴
がんゲノム医療とは、患者さんのがん細胞に起きている遺伝子の変化を詳しく調べて、その結果に基づいて一人ひとりに最適な治療を選択する医療のことです。従来の「がんの発生部位別」の治療とは異なり、「遺伝子レベル」での治療選択を行う画期的な医療アプローチです。
これまでの化学療法(薬物療法)は、「がんの部位ごと」に臨床試験を行い、有効性を確認した薬剤を使用するという方法でした。実際に、乳がんにはこの薬、胃がんにはこの薬というように、部位別に使用する薬剤や組み合わせ(レジメン)が決められています。
一方、がんゲノム医療では「遺伝子の情報をもとに、どの薬剤が効果的かを分析して投与する」という新しいアプローチを取ります。つまり、がんの薬物治療は部位別ではなく、遺伝子レベルで薬剤を選択する時代に向かっているといえます。
がん遺伝子検査の2つの種類
がんに関連する遺伝子検査は、目的によって大別すると2つのタイプに分けられます。それぞれの特徴と検査対象について詳しく見ていきましょう。
遺伝性がんを調べる検査
1つ目は、「遺伝性のがんかどうか」を調べるための検査です。遺伝性乳がん・卵巣がんやリンチ症候群などが該当します。この検査では「生まれつき持っている遺伝子の配列」を調べます。
たとえば、遺伝性乳がん・卵巣がんでは、BRCA1、BRCA2という遺伝子に変異がある場合、がんになりやすいことが分かっています。ここでのポイントは「生まれつきの遺伝子配列、遺伝子変異を調べる」ということです。
がんゲノム医療における遺伝子検査
2つ目が、がんゲノム医療における遺伝子検査です。この検査では「がん細胞」を対象とします。手術や生検で採取した患者さんの「がん細胞」を情報源として、「遺伝子の配列」を調べ、どの遺伝子に異常があるかを明らかにします。
この検査で得られた情報をもとに、そのがん細胞の特徴に合わせた最適な治療薬を選択することができます。
従来の分子標的薬治療との違い
これまでの分子標的薬による治療
がん細胞の遺伝子変異の情報に基づいて分子標的薬(遺伝子変異をターゲットにした薬剤)を処方する治療は、実は何年も前から行われています。
乳がんでHER2という遺伝子変異があるタイプに使用されている「ハーセプチン」は2001年に承認されており、20年以上前からこのような治療が実践されています。肺がんでは、EGFR遺伝子変異陽性の患者さんに対して、イレッサ、タルセバ、ジオトリフ、タグリッソなど様々な分子標的薬が使用されてきました。
新しい流れとの2つの相違点
従来の流れと、がんゲノム医療による新しい流れには、主要な相違点が2つあります。
まず1つ目は、「部位横断的な薬剤使用」です。すでに乳がんで使用されてきたハーセプチンが胃がんでも使用されるようになってきているように、分子標的薬が部位を横断して使用されるようになります。
2つ目は、遺伝子検査の診断方法の進歩です。これまでは「コンパニオン診断」と呼ばれる検査が主流でした。この検査の特徴は「一度に調べられるのは1つの遺伝子異常のみ」という点です。
例えば、肺がんの場合、まず「EGFR」の検査を行い、陰性か陽性かをチェックします。陽性であればイレッサやタグリッソなどの分子標的薬が使用できます。その後、今度は別の遺伝子である「ALK」の検査を実施します。このように1つずつ調べていくため、複数の遺伝子を検査するには時間と費用がかかるという問題がありました。
がん遺伝子パネル検査の革新性
パネル検査の仕組みと利点
がんゲノム医療で実施される遺伝子検査は「遺伝子パネル検査」と呼ばれる検査方法です。遺伝子パネル検査では、一度の検査で多数(100以上)の遺伝子異常を明らかにすることができます。
この技術革新を可能にしたのが、遺伝子の配列を高速に読み取る「次世代シーケンサー(NGS)」と呼ばれる解析機器の登場です。パネル検査により「採取したがん細胞を調べれば、多数の遺伝子異常を一回で調べることができる」という画期的な状況が実現しました。
現在利用可能な検査システム
どのような遺伝子を調べるかについては、様々なプロジェクトが進んでいます。国立がん研究センター中央病院が主導する「NCCオンコパネル」、東大による「東大オンコパネル」、京大などが主導する「OncoPrime」などがあります。
特に「NCCオンコパネル」は先進医療として実施され、保険適用を実現しています。この検査では「日本人のがんで多く変異が見られる遺伝子124個」が一度の検査で明らかになります。海外製品には搭載されていないNRG1遺伝子やRHOA遺伝子など、日本のがん患者さんで変異が見られる遺伝子が含まれる「日本人向け」の特徴も持っています。
【2025年最新】保険適用の現状と対象条件
保険適用の基本条件
2019年6月から、がん遺伝子パネル検査の一部が保険適用となりました。2025年現在、保険診療で検査を受けるための条件は以下の通りです:
- 標準治療がない固形がんの患者さん
- 局所進行もしくは転移があり、標準治療が終了した(終了見込みを含む)固形がんの患者さん
- 全身状態や臓器機能などから化学療法の適応となる可能性が高いと主治医が判断した患者さん
2025年3月からは、造血器腫瘍(血液のがん)についても「造血器腫瘍または類縁疾患ゲノムプロファイリング検査」として保険適用が開始されました。
検査費用と自己負担額
保険診療での検査費用は56万円となっています。患者さんの負担割合に応じて、1割負担の場合は5万6千円、2割負担の場合は11万2千円、3割負担の場合は16万8千円の自己負担となります。高額療養費制度の対象となる場合もあります。
がんゲノム医療を受けられる医療機関
指定医療機関の種類と役割
2025年現在、がん遺伝子パネル検査を受けられるのは以下の医療機関です:
医療機関の種類 | 数 | 主な役割 |
---|---|---|
がんゲノム医療中核拠点病院 | 13箇所 | がんゲノム医療を牽引し、治験や臨床試験を実施 |
がんゲノム医療拠点病院 | 32箇所 | 単独で治療方針の決定が可能 |
がんゲノム医療連携病院 | 240箇所 | 中核拠点病院・拠点病院と連携して医療を提供 |
これらの医療機関では、がん遺伝子パネル検査の結果を「エキスパートパネル」と呼ばれる専門家集団が検討し、患者さんに最適な治療法を提案します。エキスパートパネルには、主治医、遺伝医学や病理学の専門医、遺伝カウンセリング技術を持つ医療関係者などが参加します。
検査結果と治療への到達率
治療選択肢提示の現状
がん遺伝子パネル検査の効果について、国立がん研究センターがんゲノム情報管理センター(C-CAT)の2022年6月30日までの集計によると、標準治療がないまたは終了が見込まれる患者さんに対して、検査結果に基づき44.5%の患者さんに新たな治療選択肢が提示されました。
しかし、実際に提示された治療が比較的早期に実施されたのは9.4%にとどまっています。つまり、検査を受けた患者さんの約1割が実際の治療につながっているという状況です。
治療に結びつかないケース
がん遺伝子パネル検査を受けても治療につながらない理由として、以下のような場合があります:
- 遺伝子変異が検出されない場合
- 変異が見つかっても、それに対応する分子標的薬が現時点で存在しない場合
- 適切な薬剤が見つかっても、保険適用外で治験の条件に合わない場合
- がん組織の状態により検査が正確に実施できない場合
がんゲノム医療の課題と展望
現在の主要な課題
保険適用が実現し、検査体制も整いつつあるがんゲノム医療ですが、いくつかの課題も存在します。
最も重要な課題は、遺伝子異常が検出されても治療薬がないケースが多いことです。遺伝子変異は見つかっても、それに対する分子標的薬が現時点で全て揃っているわけではありません。そのため、検査は実施したが治療に活かせないという状況が発生します。
また、保険適用の範囲も課題となっています。遺伝子異常に合った分子標的薬が見つかった場合でも、その部位に対してすでに承認されている薬剤なら保険適用で使用できますが、未承認なら治験を受けるか、自由診療(保険適用外)で受ける必要があります。
希少な遺伝子異常では患者数が少なく、治験自体の実施が困難で、自由診療となると高額な薬価が重い経済的負担となります。
今後の発展への期待
現在は「検査のクオリティに対して、実施できる治療選択肢がまだ限定的」という状況ですが、従来の「やってみないと分からない抗がん剤治療」の時代は確実に過去のものとなりつつあります。
製薬会社による新薬開発も活発化しており、今後さらに多くの遺伝子変異に対応する分子標的薬が開発されることが期待されます。また、治験制度の充実や患者申出療養制度の拡充により、より多くの患者さんが適切な治療にアクセスできる環境整備も進んでいます。
検査を検討する際の重要なポイント
検査前に理解すべきこと
がん遺伝子パネル検査を検討する際は、以下の点を十分に理解することが重要です:
- 検査を受けても必ず治療法が見つかるわけではないこと
- 遺伝子変異が見つかっても、対応する薬剤が保険適用外の可能性があること
- 家族性腫瘍に関する遺伝子変異が偶然発見される可能性があること
- 検査結果が出るまでに4~6週間程度の時間がかかること
エキスパートパネルの役割
検査結果の解釈と治療方針の決定には、エキスパートパネルでの専門的な検討が欠かせません。この会議では、患者さん一人ひとりの検査結果について十分に議論し、最適な治療選択肢を慎重に検討します。
エキスパートパネルは、主治医をはじめ、がん薬物療法に精通した医師、遺伝医学に精通した医師、病理医、バイオインフォマティシャンなど、がんや遺伝子の専門家によって構成されています。
がんゲノム医療の将来性と期待
技術革新による進歩
がんゲノム医療は技術革新とともに急速に発展している分野です。次世代シーケンサーの性能向上により、より詳細で正確な遺伝子解析が可能になっています。また、人工知能(AI)を活用した遺伝子変異の解析技術も進歩しており、より効率的で精度の高い診断が期待されます。
個別化医療の実現に向けて
がんゲノム医療は「一人ひとりに最適な治療」という個別化医療の実現に向けた重要なステップです。現在は治療への到達率が限定的ですが、新薬開発の加速化や検査技術の向上により、将来的にはより多くの患者さんが恩恵を受けられるようになると期待されます。
特に、複数の遺伝子変異を組み合わせた治療戦略や、免疫療法との併用など、新しい治療アプローチの研究も活発に行われています。
患者さんとご家族への情報提供
相談窓口の活用
がんゲノム医療について詳しく知りたい場合は、まず主治医との相談が重要です。また、各がんゲノム医療中核拠点病院・拠点病院・連携病院では、専門的な相談窓口を設置しており、検査に関する詳細な説明を受けることができます。
遺伝カウンセリングの専門家による相談も利用でき、検査の意義や結果の解釈、家族への影響などについて詳しく説明を受けることができます。
情報収集の重要性
がんゲノム医療は急速に発展している分野のため、最新の情報を継続的に収集することが重要です。国立がん研究センターがんゲノム情報管理センター(C-CAT)のウェブサイトや、各医療機関のがんゲノム医療に関する情報を定期的に確認することをお勧めします。
がんゲノム医療は、従来の「がんの部位別治療」から「遺伝子レベルでの個別化治療」への転換点を示す画期的な医療アプローチです。現時点では課題もありますが、技術革新と治療選択肢の拡充により、より多くの患者さんが適切な治療を受けられる未来が期待されます。
参考文献・出典情報
1. 国立がん研究センター がん情報サービス「がんゲノム医療 もっと詳しく」
2. 国立がん研究センター がんゲノム情報管理センター「がんゲノム医療の効果」
3. 慶應義塾大学医学部「もっと多くの患者さんに『がんゲノム医療』を届けるために」
6. 大塚製薬「国内初の造血器腫瘍遺伝子パネル検査『ヘムサイト®』新発売」
8. 国立がん研究センター がんゲノム情報管理センター「がん遺伝子パネル検査とは」