乳がんの治療において、手術前に薬物療法を実施する「術前薬物療法(術前化学療法)」ことはがんを小さくして手術をしやすくしたり、乳房温存手術の可能性を高めたりするために実施されます。
乳がん術前薬物療法の目的と意義
術前薬物療法は、手術前にがんの縮小を目指す治療法です。主な目的は以下の通りです。まず、がんの大きさを小さくすることで、手術範囲を縮小し、乳房温存術の適応を拡大することができます。また、進行がんで手術が困難とされていた患者さんでも、薬物療法によってがんが縮小すれば手術が可能になる場合があります。
乳がんサブタイプに応じた治療薬の選択
乳がんの治療薬選択は、患者さんのがんのサブタイプ(分子生物学的特徴)に基づいて決定されます。具体的には、ホルモン受容体の発現状況、HER2タンパクの過剰発現の有無、Ki67という増殖マーカーの値などを総合的に評価して治療方針を決めます。
2025年現在の乳がん分類では、ルミナルA型、ルミナルB型(HER2陰性)、ルミナルB型(HER2陽性)、HER2型、トリプルネガティブ型の5つに大別されています。それぞれのサブタイプで治療薬の組み合わせが異なるため、個別化治療が重要になります。
主要な化学療法レジメンの詳細
アンスラサイクリン系薬剤を中心とした治療
乳がんの術前化学療法では、アンスラサイクリン系薬剤を中心とした複数の治療レジメンが用いられています。代表的なものとして、以下の組み合わせがあります。
FEC療法は、フルオロウラシル(F)、エピルビシン(E)、シクロホスファミド(C)の3剤を組み合わせた治療法です。3週間に1回の点滴を4サイクル(約3か月間)実施します。多くの医療機関で第一選択として使用されており、確立された治療効果があります。
AC療法は、ドキソルビシン(アドリアマイシン:A)とシクロホスファミド(C)の2剤を組み合わせた治療法です。これも3週間に1回の点滴を4サイクル行います。FEC療法と同様に標準的な治療として位置づけられています。
EC療法は、エピルビシン(E)とシクロホスファミド(C)の組み合わせで、AC療法のドキソルビシンをエピルビシンに置き換えた治療法です。心毒性を軽減する目的で選択される場合があります。
タキサン系薬剤の追加療法
アンスラサイクリン系薬剤による治療の後、多くの場合でタキサン系薬剤を追加します。ドセタキセルやパクリタキセルが代表的な薬剤です。これらの薬剤は細胞分裂過程を阻害することでがん細胞の増殖を抑制します。
ドセタキセルは3週間に1回の点滴を4サイクル、パクリタキセルは毎週1回の点滴を12回(約3か月間)実施するのが一般的です。タキサン系薬剤の追加により、アンスラサイクリン系単独の場合と比較して、再発リスクをさらに約17%減少させることができるとされています。
TC療法:アンスラサイクリンを使用しない選択肢
TC療法は、ドセタキセル(T)とシクロホスファミド(C)を組み合わせた治療法です。心毒性や二次発がんのリスクを懸念してアンスラサイクリン系薬剤を避けたい場合に選択されます。3週間に1回の点滴を4から6サイクル実施します。
TC療法は、特にアメリカで広く使用されており、AC療法と同等の効果が報告されています。副作用として脱毛、全身倦怠感、末梢神経障害などが知られていますが、心毒性のリスクが低いという利点があります。
HER2陽性乳がんに対する分子標的療法
トラスツズマブを中心とした治療
HER2陽性乳がんの患者さん(全乳がん患者さんの約15から20%)には、化学療法に加えて分子標的薬であるトラスツズマブ(ハーセプチン)を併用します。トラスツズマブはHER2タンパクに特異的に結合してがん細胞の増殖を抑制する抗体薬です。
HER2陽性乳がんの術前薬物療法では、通常、タキサン系薬剤にトラスツズマブを併用します。アンスラサイクリン系薬剤とトラスツズマブの同時使用は心毒性のリスクが高まるため、通常は避けられます。
ペルツズマブの追加による治療強化
リンパ節転移があるなど再発リスクが高いHER2陽性乳がんでは、トラスツズマブにペルツズマブを追加した二重抗HER2療法(dual-HER2 blockade)が推奨されています。ペルツズマブもHER2タンパクに結合しますが、トラスツズマブとは異なる部位に結合するため、相乗効果が期待できます。
NeoSphere試験などの臨床試験では、トラスツズマブにペルツズマブを追加することで、病理学的完全奏効(pCR)率が21.8%から39.3%に向上することが示されています。pCRを達成した患者さんは予後が良好であることが知られており、この結果は治療の個別化にとって重要な意味を持ちます。
治療効果の評価と個別化医療
病理学的完全奏効(pCR)の重要性
術前薬物療法の効果は、手術時の病理検査で評価されます。最も重要な指標は病理学的完全奏効(pCR)で、これは手術標本でがん細胞が完全に消失した状態を指します。pCRを達成した患者さんは、そうでない患者さんと比較して再発リスクが低く、長期予後が良好であることが多くの研究で示されています。
サブタイプ別のpCR率には差があり、HER2陽性やトリプルネガティブ乳がんでは比較的高い率でpCRが得られる一方、ホルモン受容体陽性HER2陰性乳がんではpCR率は低い傾向があります。
画像診断による効果判定
術前薬物療法中は、定期的な画像検査(造影MRIや造影CT)によってがんの縮小度合いを評価します。治療開始前と比較してがんが小さくなっていれば、薬物療法が有効であることが確認できます。この情報は、乳房温存術の適応判定や術後治療方針の決定に活用されます。
ホルモン受容体陽性乳がんでの内分泌療法併用
ホルモン受容体陽性の閉経後乳がん患者さんには、化学療法に加えてアロマターゼ阻害薬などの内分泌療法を併用する場合があります。内分泌療法は、がん細胞の増殖に必要なエストロゲンの作用を阻害することで治療効果を発揮します。
ただし、術前薬物療法における内分泌療法の位置づけについては、患者さんの年齢、閉経状態、がんの進行度などを総合的に判断して決定されます。
副作用管理と支持療法の進歩
主要な副作用とその対策
術前化学療法では、薬剤の種類に応じてさまざまな副作用が生じる可能性があります。骨髄抑制による白血球減少、血小板減少、貧血は頻度の高い副作用です。感染予防や貧血対策として、適切な支持療法が重要になります。
消化器症状として、吐き気や嘔吐が起こることがあります。近年は制吐剤の進歩により、これらの症状を効果的に予防・軽減できるようになっています。治療前に適切な制吐剤を投与することで、患者さんの生活の質を維持しながら治療を継続できます。
脱毛は多くの患者さんにとって心理的負担が大きい副作用です。アピアランスケア(外見の変化への対策)として、ウィッグや帽子の使用、頭皮冷却療法などの選択肢があります。
長期的な副作用への配慮
アンスラサイクリン系薬剤では心毒性、タキサン系薬剤では末梢神経障害が長期的な副作用として懸念されます。定期的な心機能検査や神経症状の評価を行い、必要に応じて治療法の変更を検討します。
また、一部の化学療法薬では二次発がん(特に血液がん)のリスクがわずかに上昇することが知られています。長期フォローアップ中は、このようなリスクについても注意深く観察していきます。
治療期間と投与スケジュール
一般的な術前化学療法の期間は4から6か月程度です。具体的なスケジュール例として、FEC療法4サイクル(3か月)の後にドセタキセル4サイクル(3か月)を実施する場合、総治療期間は約6か月になります。
HER2陽性乳がんでトラスツズマブを使用する場合、抗HER2療法は術前・術後を通じて計1年間継続するのが標準的です。ペルツズマブを併用する場合も同様の期間で実施されます。
治療は外来で行われることが多く、患者さんの生活への影響を最小限に抑えながら実施されます。ただし、高齢の患者さんや副作用が懸念される場合には、初回治療を入院で行い、安全性を確認することもあります。
術前薬物療法後の治療方針
手術までの期間と術式選択
術前薬物療法完了後、通常2から4週間の間隔をおいて手術を実施します。この期間中に、治療効果の最終評価を行い、最適な術式を決定します。がんが十分に縮小した場合は乳房温存術が可能になり、患者さんの整容性や生活の質の向上につながります。
術後追加治療の検討
手術標本の病理検査結果に基づいて、術後の追加治療を検討します。pCRが得られた場合は予後良好と考えられますが、がん細胞が残存していた場合には、追加の薬物療法が必要になることがあります。
特にHER2陽性乳がんで術前薬物療法後にがん細胞が残存した場合、トラスツズマブ エムタンシン(T-DM1)という抗体薬物複合体による術後治療が推奨されています。KATHERINE試験では、T-DM1の投与により再発リスクが50%減少することが示されています。
最新の治療動向と将来展望
免疫チェックポイント阻害薬の導入
2025年現在、トリプルネガティブ乳がんの術前薬物療法において、免疫チェックポイント阻害薬と化学療法の併用が注目されています。免疫系の働きを活性化することで、従来の化学療法単独では得られない治療効果が期待されています。
バイオマーカーを用いた個別化治療
多遺伝子アッセイ(Oncotype DXなど)の保険適用により、化学療法の必要性をより正確に予測できるようになっています。これにより、治療効果が期待できる患者さんを適切に選別し、不要な治療による副作用を避けることが可能になっています。
新規抗体薬物複合体の開発
HER2低発現乳がんに対するトラスツズマブ デルクステカン(T-DXd)や、TROP2を標的とするダトポタマブ デルクステカンなど、新しい抗体薬物複合体の臨床応用が進んでいます。これらの薬剤により、従来治療が困難であった患者さんにも新たな治療選択肢が提供されています。
患者さんとの意思決定共有
術前薬物療法の実施にあたっては、患者さんとの十分な話し合いが重要です。治療の目的、期待される効果、起こりうる副作用、代替治療法などについて詳しく説明し、患者さんの価値観や希望を考慮した治療方針を決定します。
特に若年患者さんでは、将来の妊娠・出産への影響についても十分に検討し、必要に応じて生殖機能温存に関する相談も行います。また、就労世代の患者さんには、治療スケジュールと仕事の両立について具体的な相談支援を提供します。
多職種連携による包括的ケア
術前薬物療法では、医師、看護師、薬剤師、栄養士、ソーシャルワーカーなど多職種が連携してケアを提供します。
治療法 | 使用薬剤 | 投与間隔 | サイクル数 | 主な適応 | 主な副作用 |
---|---|---|---|---|---|
FEC療法 | フルオロウラシル+エピルビシン+シクロホスファミド | 3週間毎 | 4サイクル | HER2陰性乳がん | 骨髄抑制、脱毛、吐き気 |
AC療法 | ドキソルビシン+シクロホスファミド | 3週間毎 | 4サイクル | HER2陰性乳がん | 骨髄抑制、脱毛、心毒性 |
TC療法 | ドセタキセル+シクロホスファミド | 3週間毎 | 4-6サイクル | 心毒性回避希望例 | 末梢神経障害、脱毛 |
ドセタキセル追加 | ドセタキセル | 3週間毎 | 4サイクル | アンスラサイクリン後 | 末梢神経障害、浮腫 |
パクリタキセル追加 | パクリタキセル | 毎週 | 12回 | アンスラサイクリン後 | 末梢神経障害、関節痛 |
参考文献・出典情報
- 日本乳癌学会. 乳癌診療ガイドライン2022年版
- 日本乳癌学会. 患者さんのための乳がん診療ガイドライン2023年版
- 国立がん研究センター がん情報サービス. 乳がん治療
- がん研有明病院. 疾患別の薬物療法
- 日本がん・生殖医療学会. 乳がん
- 日本乳癌学会. CQ12 術前薬物療法を行うHER2陽性早期乳癌に対して,トラスツズマブにペルツズマブを加えることは勧められるか?
- The New England Journal of Medicine. 残存するHER2陽性乳癌に対するトラスツズマブエムタンシン投与による生存
- 国立がん研究センター東病院. 最適な治療を提供し、多様なニーズにも対応
- QLife がん. 乳がんの「術前薬物療法」治療の進め方は?治療後の経過は?
- 小林製薬中央研究所. アントラサイクリン系の抗がん剤