がん治療における薬は、数十年前から使われているいわゆる「抗がん剤」が主流ですが、近年は抗がん剤よりも毒性が低く、がん細胞だけを攻撃しようとする「分子標的薬」が広く使われるようになりました。
分子標的治療はがん細胞に特有の性質をみつけ、そこを狙い撃ちする治療法で、乳がんではハーセプチン(トラスツズマブ)という薬が使われています。
ハーセプチンは、がんの増殖に必要な物質を取り込む受容体(HER2タンパク)を攻撃することでがんを抑えますので、HER2タンパクをもっている人にのみ効果があります。一般的に副作用は軽いですが、まれに重篤な副作用が起こることがあります。
分子標的治療とは
がん細胞は正常細胞と違い、際限なく増殖し続けるという性質があります。最近は、この増殖の仕組みを探る研究が進み、がん細胞は旺盛に増殖するのに必要ないろいろな因子をもっていることがわかってきました。そして、これらの因子を特定して狙い撃ちすることができれば、がんの増殖が抑えられるのではないかと考えられるようになりました。
がん細胞の特定の因子を狙い撃ちする治療を「分子標的治療」、それに用いられる薬を「分子標的治療薬」といいます。従来の抗がん剤は、がん細胞も正常細胞も見さかいなく攻撃するので、正常細胞にもダメージを与え、その結果さまざまな副作用が出ます。
正常な細胞の中にも増殖が盛んな細胞、例えば髪の毛や消化器の細胞などが影響を受けますので、脱毛や吐き気といった副作用が起こります。一方、分子標的治療は、がん細胞だけをピンポイントで狙い撃ちするので、大きな副作用なしにがんを抑える効果が期待できる、というわけです。
HER2タンパクとは
がん細胞の中には、その表面に「受容体」をもっているものがあることがわかってきました。受容体の1つが「HER2(ハーツー)タンパク」です。「HER2タンパク」ががん細胞に「増殖しろ」という指令を出して、がん細胞が増えると考えられています。
ハーセプチンはHER2タンパクを攻撃して働きをブロックすることで、がん細胞の増殖を抑える薬です。また、ハーセプチンがHER2タンパクにくっつくことで目印となり、免疫細胞(外敵を攻撃するからだの中の細胞)が攻撃し、がん細胞を破壊します。
ハーセプチンは、HER2タンパクをもっているがん細胞にのみ効果を発揮しますので、生検または手術で切除した組織を調べて、HER2タンパクがあるかどうかを判定します。そして、HER2タンパクがある(HER2陽性)場合に患者さんに使用します。
乳がんの患者さんの4人に1人くらい(25%)がHER2タンパクをもっています。がんの悪性度は、HER2タンパクをもっている細胞のほうが、もっていない場合に比べて高いことがわかっています。
ハーセプチン治療の対象になるかどうかの判定方法
がん細胞にHER2タンパクがあるかどうかは、手術前であれば針生検(マンモトーム生検など)で取った乳がん組織を、手術後であれば手術で採取した組織を調べます。そして、乳がんの細胞にどのくらいHER2タンパクがあるかをIHC(免疫組織学染色)法、またはHER2遺伝子の増幅をFISH(フィッシュ)法で調べて判定します。
IHC法の結果は0、1+、2+、3+と判定され、3+であればハーセプチンの適応となります。IHC法でOまたは1+であればハーセプチンの適応にはなりません。2+の場合はFISH法という別の検査でHER2が陽性か陰性かを判定します。
FISH法で陽性であればハーセプチンの適応となります。施設によっては最初にFISH法を行うところもあります。
以上をまとめると、「IHC法で3+」または「FISH法で陽性」の場合には、がん細胞にHER2タンパクがある(HER2陽性)と判定され、ハーセプチンの適応となります。
手術後に再発予防の目的で使用するハーセプチン治療
日本においてハーセプチンが乳がんに対して保険承認されたのは2001年ですが、適応は、乳房から離れた部位に再発(遠隔再発)した患者さんに限定されていました。その後の臨床試験により術後のHER2陽性の患者さんにハーセプチンを使用することで、再発が大きく抑えられることがわかり、再発予防薬として、手術後の患者さんにハーセプチンを使用することが2008年2月に保険承認されました。
手術後のハーセプチンの使用方法については、大規模な臨床試験の結果が報告されており、ハーセプチンと抗がん剤を組み合わせて使用することで、再発する危険性が半分近く抑えられることわかりました。
したがって現在では、HER2陽性でわきのリンパ節(腋窩リンパ節)に転移がある患者さんと、わきのりンパ節転移はなくても再発りスクが高いと判断された患者さんに対して、アンスラサイクリン系薬剤投与後に卜ラスツズマブを投与する方法、またはタキサン系薬剤と同時に、または順番に使用する方法が勧められています。
抗がん剤は使わずにハーセプチンだけを投与する方法については、効果が確かめられておりませんので、術後にハーセプチンを使用する場合には抗がん剤と組み合わせて行うことが前提となります。ハーセプチンは3週間に1回、1年間点滴します。
進行・再発乳がん患者さんに対するハーセプチン治療
進行・再発乳がんの患者さんにおいても、HER2陽性の人がハーセプチン療法の対象となります。ただし、ホルモン療法の効果が期待できる場合には、まず副作用の少ないホルモン療法から行い、ホルモン療法の効果がなかったり、ホルモン療法が効かなくなったりしたときに、ハーセプチンを抗がん剤と一緒に、あるいはハーセプチンを単独で使用するのが一般的です。
ハーセプチンと抗がん剤を一緒に行うと50%以上の患者さんに効果がみられ、単独で使用した場合(30%)より効果は期待できますが、副作用も増えます。したがって、ハーセプチンを単独で使用するか、抗がん剤と一緒に行うかは、患者さんのからだの様子などもみながら効果と副作用を検討して決めることになります。
ハーセプチンと一緒に行う抗がん剤としては、タキサン系薬剤(パクリタキセル、ドセタキセル)やビノレルビン(ナベルビン),カペシタビン(ゼローダ)などがあります。アンスラサイクリン系薬剤とハーセプチンは、一緒に使用すると心臓に対する副作用が増加するので、通常は使用しません。
HER2陽性の人でもハーセプチンが効かないことがありますが、その場合は、ハーセプチンは中止して抗がん剤の治療を行います。ハーセプチンは1週間に1回点滴します。
ハーセプチンの副作用
ハーセプチンは抗がん剤に比べれば副作用が少ないのですが、重篤な副作用として心臓機能の低下(100人に2~4人くらい)や呼吸器障害が出ることがあります。このため、治療開始前と治療中は定期的な心臓機能の検査を行うことが勧められています。
重篤ではないですが、多くの患者さんにみられる副作用は発熱と悪寒で、約40%の患者さんに起こります。副作用の起こる時期は、ハーセプチン投与後24時間以内(多くは8時間以内)です。ほとんどは初回の投与のときのみで、2回目以降にみられることはまれです。抗がん剤によくみられるような脱毛や吐き気といった副作用はありません。
その他の分子標的治療薬
がん細胞がどのような仕組みで増えていくのか、ということがわかってくると、その仕組みを抑える薬の研究が進みます。乳がんの治療薬として登場する新しい分子標的治療薬には次のようなものがあります。
(1)ラパチ二ブ(タイケルブ)
ラパチ二ブはハーセプチンと同様にHER2陽性の乳がんに対して有効で、ハーセプチンと抗がん剤との併用療法が効かなくなったような場合が、よい適応となります。ラパチ二ブの術後療法としての有効性はまだわかっていないため、再発した乳がん患者さんにのみ使用できます。
ラパチ二ブは飲み薬であり、副作用は下痢と発疹です。本剤もハーセプチンと同様に、抗がん剤にしばしばみられるような脱毛や吐き気といった副作用はありません。
(2)ベバシズマブ(アバスチン)
がん細胞をつくる「血管増殖因子」という物質の働きにより、がん細胞が増えるために必要な栄養を運ぶための血管が新しくつくられていきます。血管増殖因子の働きを抑える薬剤であるべバシズマブは乳がんにも効果があり、欧米ではすでに使用されています。
以上、乳がんで使われる分子標的薬についての解説でした。
私がサポートしている患者さんでもハーセプチンなど分子標的薬を使っている方は多くいます。従来の抗がん剤に比べると効果を発揮しやすく、副作用は少ないですが、それでも「がんを治す薬」ではありません。