この記事では、2025年現在の食道がん治療の最新情報について、専門的な情報をできるだけ分かりやすくお伝えします。ご自身やご家族がこれからどのような治療の選択肢に臨むのか、その全体像を理解し、医師との対話をより深めるための一助となれば幸いです。
第1章:まずは診断の理解から:治療計画の土台を知る
最適な治療法は、まずご自身の「がんの個性」を正確に知ることから始まります。食道がんの治療計画は、主に「がんの種類(組織型)」と「がんの進行度(ステージ)」という2つの大きな柱によって決まります。
1.1 食道がんの2つの主な顔:扁平上皮がんと腺がん
食道がんは、食道の最も内側にある粘膜から発生する悪性腫瘍です 1。このがんには、細胞の見た目や性質によって主に2つのタイプがあります。
- 扁平上皮(へんぺいじょうひ)がん:日本人の食道がんの90%以上を占める、最も一般的なタイプです 1。食道の内壁を覆う扁平上皮という細胞から発生します。このタイプのがんは、長年の飲酒と喫煙が主な危険因子として知られています。特に、お酒を飲むと顔が赤くなる体質の方はリスクが高いことが分かっています 2。これは、アルコールの分解過程で生じるアセトアルデヒドという発がん性物質を分解する酵素の働きが弱いためです。
- 腺(せん)がん:日本ではまだ10%未満と少数派ですが、食生活の欧米化に伴い増加傾向にあるタイプです 1。欧米では食道がんの半数以上を占めます 2。胃酸が食道へ逆流することで起こる「逆流性食道炎」や、それによって食道の粘膜が胃の粘膜に似たものに置き換わってしまう「バレット食道」が主な発生要因です。
このように、がんの種類が違うということは、その発生原因や生物学的な成り立ちが異なることを意味します。扁平上皮がんはアルコールやタバコといった外からの刺激が、腺がんは胃酸という内からの刺激が深く関わっています。この違いを理解することは、個別化治療の第一歩であり、将来的にさらに特化した治療薬が開発される上で重要な情報となります。
1.2 治療法を決める物差し:がんの進行度(ステージ0~IV)
がんの進行度を客観的に示すのが「ステージ(病期)」です。これは世界共通の「TNM分類」という基準に基づいて決定されます。
- T因子(Tumor):がんが食道の壁のどの深さまで達しているか(深達度)を示します。Tis(ごく表面の粘膜内にとどまる)からT4(大動脈や気管など周囲の重要臓器に及んでいる)まで分類されます 。
- N因子(Node):食道の周りにあるリンパ節への転移の有無と、その個数や範囲を示します。N0(転移なし)からN3(広範囲に転移あり)まで分類されます 。
- M因子(Metastasis):肺や肝臓など、食道から離れた臓器への転移(遠隔転移)の有無を示します。M0(転移なし)とM1(転移あり)に分けられます 。
これらT・N・Mの3つの要素の組み合わせによって、ステージが0期からIV期まで細かく決まります。数字が大きくなるほど、がんが進行していることを意味します。
このステージ分類は、単に「がんがどれくらい進んでいるか」を示すだけでなく、「治療の目的」を決定づける重要なロードマップとなります。例えば、ステージ0やIといった早期であれば「がんを完全に取り除き、治癒を目指す」ことが最大の目標です。一方、ステージIVのように遠隔転移がある場合は、「がんと共存しながら、症状を和らげ、生活の質(QOL)を保ちつつ、できるだけ長く穏やかに過ごす」ことが目標になります。
また、治療法を決める上では、患者さんご自身の全身状態も非常に重要です。パフォーマンスステータス(PS)と呼ばれる指標で日常生活の元気さが評価され、PSが良好(0~1)であれば標準的な治療が可能ですが、体力が低下している(PSが高い)場合は、治療内容を調整したり、症状緩和を中心としたケアが選択されたりします。
第2章:【2025年版】ステージ別治療の最前線
ここからは、ステージごとの最新治療法を具体的に見ていきましょう。まずは全体像を把握しやすいように、一覧表にまとめました。
2025年 食道がんのステージ別治療法サマリー
ステージ | 主な治療目標 | 主な治療法 |
0期・ごく早期のI期 | 治癒(臓器温存) | 内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD) |
I期~III期(切除可能) | 治癒(根治的治療) | 手術(ロボット支援下、胸腔鏡下) ± 術前・術後の化学療法や免疫療法 |
II期~IVA期(切除不能) | 治癒・長期コントロール | 化学放射線療法 ± 免疫療法 |
IVB期(遠隔転移あり) | QOL維持・延命 | 薬物療法(化学療法+免疫療法、分子標的薬など) |
2.1 ステージ0とごく早期のI期:メスを使わずに根治を目指す内視鏡治療
がんが食道の粘膜内、あるいは粘膜下層の浅い部分にとどまり、リンパ節転移の可能性が極めて低い場合、体への負担が最も少ない**内視鏡的粘膜下層剥離術(ESD)**が第一選択となります 8。
これは、口から入れた内視鏡(胃カメラ)の先端から特殊な電気メスを出し、がんのある粘膜を切り取って剥がし取る治療法です。
ESDの大きなメリット
- 食道を温存できる:食道を切り取らないため、手術後のような食事の大きな変化がなく、生活の質を高く保てます。
- 体への負担が少ない:お腹や胸に傷がつかず、痛みも軽度です。入院期間も約1週間と短く、早期の社会復帰が可能です。
治療は鎮静剤や全身麻酔を用いて、眠っている間に苦痛なく行われます。切除した組織は病理検査で詳しく調べられ、もし思ったよりがんが深かったり、血管やリンパ管にがん細胞が入り込んでいたりした場合は、リンパ節転移の可能性があるため、追加で手術や化学放射線療法が検討されます。
ESDの登場と普及は、食道がん治療における画期的な進歩です。これにより、早期発見の価値が飛躍的に高まりました。
2.2 ステージI~III期:進化する手術と集学的治療
がんが粘膜下層より深く達している場合や、リンパ節転移がある場合は、より強力な治療が必要になります。ここでは手術、放射線、薬物療法を組み合わせた「集学的治療」が中心となります。
手術の進化:より精密に、より低侵襲に
かつては胸を大きく開ける開胸手術が主流でしたが、現在では小さな傷で行う胸腔鏡(きょうくうきょう)手術や、さらに進化したロボット支援下手術が標準となりつつあります。
特にロボット支援下手術(ダビンチなど)は、医師が操作するロボットアームを用いることで、人間の手を超える精密な操作を可能にします。
- 3DHD画像:鮮明な3次元の拡大画像で、微細な神経や血管を正確に識別できます。
- 手ぶれ補正と多関節機能:術者の手ぶれを自動で補正し、人間の手首以上に自由自在に動く鉗子(かんし)で、複雑な操作を正確に行えます。
これらの技術は、特に食道周囲の複雑なリンパ節郭清(がんが転移しやすいリンパ節を切除すること)や、声を司る反回神経を温存する際に威力を発揮します。結果として、手術の安全性が向上し、術後の声がれ(反回神経麻痺)といった合併症が減少することが報告されています。
患者さんにとっては、出血や痛みが少なく、回復が早いという大きなメリットがあります。
化学放射線療法
手術が難しい場合や、手術を希望されない患者さんに対しては、抗がん剤治療と放射線治療を同時に行う化学放射線療法が行われます。
近年では強度変調放射線治療(IMRT)や粒子線治療(陽子線・重粒子線治療)といった高精度な照射技術が登場しています 。これらは、がんの形に合わせて放射線の強さを調整し、病巣にピンポイントで照射できるため、心臓や肺といった正常な臓器へのダメージを最小限に抑えながら、がんに十分な攻撃を加えることを目的にしたものです。
ただし、治療中は放射線の影響で食道炎が起こり、飲み込む際に痛みを感じたり、皮膚炎やだるさ、白血球の減少といった副作用が出ることがあります。
「術後補助免疫療法」
食道がん治療における近年の進歩の一つが、術後の免疫療法の導入です。
CheckMate-577試験という臨床試験により、ステージII・IIIの食道がんで、術前の化学放射線療法の後に手術を受けたものの、切除した組織にがん細胞が残っていた患者さんに対し、術後に免疫チェックポイント阻害薬の**ニボルマブ(オプジーボ)**を1年間投与することで、再発のリスクが大幅に低下することが証明されました。具体的には、ニボルマブを投与しなかった場合に比べて、がんが再発せずに生存できる期間の中央値が2倍(11.0ヵ月→22.4ヵ月)に延長しました。
この結果を受け、この条件下での術後ニボルマブ投与は新たな標準治療として確立されました。
2.3 ステージIVと再発がん:
がんが肺や肝臓など他の臓器に遠隔転移しているステージIVや、治療後に再発した場合でも、治療の選択肢は増えました。
初回治療からの免疫療法
進行・再発食道がん(特に扁平上皮がん)の初回治療は、化学療法に免疫チェックポイント阻害薬を組み合わせるのが現在の世界的な標準治療です。
- KEYNOTE-590試験:**ペムブロリズマブ(キイトルーダ)**と化学療法(5-FU+シスプラチン)の併用が、化学療法単独に比べて生存期間を大きく延長することを示しました。
- CheckMate-648試験:さらに2つの強力な選択肢を提示しました。一つは**ニボルマブ(オプジーボ)と化学療法の併用、もう一つは化学療法を使わないニボルマブとイピリムマブ(ヤーボイ)**という2種類の免疫チェックポイント阻害薬の併用です。いずれも化学療法単独を上回る生存期間の延長効果が確認されています。
これらの選択肢が登場したことで、患者さんの状態やがんの性質(PD-L1の発現状況など)に応じて、初回から最適な免疫療法レジメン(組み合わせ)を選択できるようになりました。
精密な攻撃:分子標的薬と抗体薬物複合体(ADC)
がん細胞が持つ特定の「目印」を狙い撃ちする治療も進歩しています。
- 抗体薬物複合体(ADC):これは「ミサイル療法」とも呼ばれ、がん細胞の目印に結合する抗体に、強力な抗がん剤を搭載した薬剤です。
- HER2陽性の腺がん:食道腺がんや食道胃接合部腺がんの一部には、HER2というタンパク質が過剰に発現しているタイプがあります。このタイプの進行・再発がんに対して、抗HER2 ADCである**トラスツズマブ デルクステカン(エンハーツ)**が、従来の治療が効かなくなった後の選択肢として効果を示しています。
- 新たな標的:現在、FGFR2など、新たな治療標的の探索も進められており、多くの患者さんが個別化治療の恩恵を受けられるようになると期待されています。
かつてステージIVの治療は選択肢が限られていましたが、今や複数の免疫療法レジメンから初回治療を選び、その後もADCのような次の一手を打てるようになりました。
第3章:包括的ケア
治療の効果を最大限に引き出すためには、体と心の両面からの手厚いサポートが不可欠です。栄養管理、リハビリテーション、精神的なケアは、今や治療そのものと同じくらい重要視されています。
3.1 手術後の生活を乗り切る:栄養とダンピング症候群の管理
食道切除後は、食事の仕方に大きな工夫が必要になります。胃が食道の代わりになるため、一度に食べられる量が減り、食べ物が直接腸に流れ込みやすくなるからです。
- 食事の基本:1回の量を減らし、食事の回数を1日6~8回に分ける「分割食」が基本です。よく噛んでゆっくり食べ、水分は食事中ではなく食間にとることで、満腹感を和らげることができます。
- ダンピング症候群:食べ物が急に小腸に流れ込むことで起こる不快な症状です。食後すぐにお腹が張ったり、冷や汗や動悸がしたりする「早期ダンピング」と、食後2~3時間で低血糖のような症状(だるさ、めまい)が起こる「後期ダンピング」があります 47。食事の工夫(糖分の多いものを一度に摂らないなど)で多くは対処可能です。
- 栄養サポート:術後早期は、お腹に作った小さな管(腸瘻)から栄養剤を補給する経腸栄養も併用し、体重減少を最小限に抑えます。
3.2 最新治療の副作用と向き合う
新しい治療法には、それぞれ特有の副作用があります。
- 化学放射線療法の副作用:治療中から治療後しばらくは、放射線の影響で食道炎が起こり、飲み込むときの痛みが続きます。また、皮膚炎やだるさ、白血球減少なども見られます。
- 免疫療法の副作用(irAE):免疫チェックポイント阻害薬では、活性化した免疫が正常な臓器を攻撃してしまう「免疫関連有害事象(irAE)」が起こることがあります。下痢(大腸炎)、皮膚の発疹、肝機能障害、甲状腺機能の異常、息切れ(間質性肺炎)など、症状は全身のあらゆる臓器に現れる可能性があります。これらの副作用は治療終了後しばらく経ってから現れることもあるため、普段と違う症状に気づいたら、どんな些細なことでもすぐに医療チームに伝えることが極めて重要です。
3.3 嚥下と呼吸のリハビリテーション
手術や放射線治療は、飲み込む力(嚥下機能)や呼吸機能に影響を与えることがあります。
- 嚥下リハビリテーション:飲み込みに関わる筋肉を鍛える訓練や、安全な飲み込み方を練習することで、誤嚥(食べ物が気管に入ること)を防ぎ、食事をスムーズに摂れるようにします。
- 呼吸リハビリテーション:手術前から深呼吸などの呼吸訓練を行うことで、術後の肺炎などの合併症を予防します。
3.4 心のケア:サイコオンコロジーの役割
がんと診断された衝撃や治療への不安は、患者さんだけでなくご家族にも大きな精神的負担となります。
「サイコオンコロジー(精神腫瘍学)」は、こうした心のつらさをケアする専門分野です。
精神腫瘍医や臨床心理士などの専門家が、不安や不眠、気分の落ち込みなどに対してカウンセリングや薬物療法を行い、患者さんとご家族が前向きに治療に取り組めるようサポートします。一人で抱え込まず、つらい気持ちを話せる場所があることを知っておくことが大切です。
これらの支持療法は「おまけ」ではありません。強力な治療を安全に完遂し、その効果を最大限に引き出すために不可欠な「治療の一部」です。栄養状態が良く、体力が維持され、精神的に安定していること。それが、厳しい治療を乗り越えるための土台となるのです。
まとめ:
2025年、食道がんの治療はより個別化が進んでいます。
- 早期発見であれば、ESDによって食道を温存したまま根治が目指す。
- 進行していても、ロボット支援下手術などの低侵襲な治療で体への負担を減らし、術後の免疫療法で再発のリスクを抑える。
- ステージIVであっても、複数の免疫チェックポイント阻害薬や抗体薬物複合体といった新薬が登場。
治療の選択肢が増え、複雑になったからこそ、ご自身の病状や治療の知識を正しく得ることが大切です。