乳がんの薬物療法の基本
乳がんの手術が終わると、ほとんどの患者さんに薬物療法が提案されます。乳がんは早期の段階でも、すでにがん細胞が血液中や骨髄に存在している可能性があるためです。術後の薬物療法は、全身に存在しているかもしれないがん細胞を攻撃する全身治療として非常に重要な役割を果たします。
乳がんの薬物療法で使用される薬剤は、大きく4つのタイプに分類されます:「ホルモン療法薬」「細胞障害性抗がん薬(化学療法薬)」「分子標的薬」「免疫チェックポイント阻害薬」です。
薬物療法の選択は、主にがん細胞の性質(サブタイプ分類)によって決まります。具体的には、ホルモン受容体(エストロゲン受容体、プロゲステロン受容体)の有無とHER2タンパク質の過剰発現の有無が治療選択において重要な指標となります。
ホルモン治療薬一覧と効果
ホルモン療法薬は、エストロゲンを利用して増殖する乳がん(ホルモン受容体陽性乳がん)に対する治療です。乳がん全体の約60~70%がこのタイプに該当します。
閉経前に使用される薬剤
閉経前の患者さんでは、エストロゲンが主に卵巣で作られるため、以下の薬剤が使用されます:
- タモキシフェン(ノルバデックスなど):エストロゲンがエストロゲン受容体に結合するのを妨げる抗エストロゲン薬です
- LH-RHアゴニスト製剤(ゴセレリン、リュープロレリンなど):卵巣でのエストロゲン産生を抑制する注射薬です
閉経後に使用される薬剤
閉経後の患者さんでは、脂肪組織でエストロゲンが作られるため、以下の薬剤が主に使用されます:
- アロマターゼ阻害薬:アナストロゾール(アリミデックス)、レトロゾール(フェマーラ)、エキセメスタン(アロマシン)など
- SERD(選択的エストロゲン受容体分解薬):フルベストラント(フェソロデックス)
ホルモン療法と併用される分子標的薬
2025年現在、ホルモン療法と併用される分子標的薬として以下があります:
薬剤名 | 種類 | 主な用途 | 主要な副作用 |
---|---|---|---|
パルボシクリブ(イブランス) | CDK4/6阻害薬 | 転移・再発乳がん | 好中球減少症 |
アベマシクリブ(ベージニオ) | CDK4/6阻害薬 | 転移・再発乳がん、術後補助療法 | 下痢、間質性肺炎 |
オラパリブ(リムパーザ) | PARP阻害薬 | BRCA変異陽性乳がん | 貧血、吐き気 |
抗がん剤一覧と作用機序
抗がん剤(細胞障害性抗がん薬)は、悪性度の高い乳がんや、ホルモン受容体陰性の乳がんに使用されます。がん細胞の分裂過程で必要となる様々な段階に働きかけて、がん細胞を死滅させる治療薬です。
アンスラサイクリン系抗がん剤
- ドキソルビシン(アドリアシン)
- エピルビシン(ファルモルビシン)
これらは細胞のDNA複製を阻害し、がん細胞の増殖を抑制します。心機能への影響に注意が必要です。
タキサン系抗がん剤
- パクリタキセル(タキソール)
- ドセタキセル(タキソテール)
- ナブパクリタキセル(アブラキサン)
微小管の安定化により細胞分裂を阻害します。神経障害が主な副作用です。
代謝拮抗薬
- カペシタビン(ゼローダ)
- ゲムシタビン(ジェムザール)
その他の抗がん剤
- シクロフォスファミド(エンドキサン)
- カルボプラチン(パラプラチン)
- エリブリン(ハラヴェン)
分子標的薬一覧と治療対象
分子標的薬は、がん細胞に特異的に見られる分子を標的として攻撃する薬剤です。従来の抗がん剤と比較して、より精密にがん細胞をねらい撃ちできるため、正常細胞への影響を抑えることができます。
抗HER2薬
HER2陽性乳がん(全体の約15~20%)に使用される薬剤です:
- トラスツズマブ(ハーセプチン):最初に開発されたHER2標的薬
- ペルツズマブ(パージェタ):HER2の別の部位に結合
- T-DM1(カドサイラ):トラスツズマブと抗がん剤を結合した抗体薬物複合体
- T-DXd(エンハーツ):次世代の抗体薬物複合体
- ラパチニブ(タイケルブ):経口のチロシンキナーゼ阻害薬
- ツカチニブ:2025年に承認申請された新しい経口HER2阻害薬
その他の分子標的薬
- ベバシズマブ(アバスチン):血管新生阻害薬
- エベロリムス(アフィニトール):mTOR阻害薬
最新の分子標的薬(2025年注目薬剤)
2025年現在、新たな分子標的薬の開発が進んでいます:
- 抗TROP2抗体薬物複合体(トロデルビ):2024年にトリプルネガティブ乳がんで承認
- AKT阻害薬(トルカプ):2024年に承認されたPIK3CA変異陽性乳がん治療薬
- 抗ペリオスチン抗体(PT0101):2025年より臨床試験開始予定
免疫チェックポイント阻害薬
トリプルネガティブ乳がん(全体の約15%)で、PD-L1陽性の場合に使用される新しいタイプの治療薬です:
- ペムブロリズマブ(キイトルーダ)
- アテゾリズマブ(テセントリク)
これらの薬剤は、がん細胞が免疫系から逃れる仕組みを阻害し、患者さん自身の免疫システムにがん細胞を攻撃させる治療法です。
サブタイプ別治療薬の選択
乳がんのサブタイプによって、使用される薬剤は以下のように決まります:
ホルモン受容体陽性・HER2陰性
乳がん全体の約70%を占める最も多いタイプです。増殖能(Ki67)の値により治療が決まります:
- Ki67低値:ホルモン療法が第一選択
- Ki67高値:ホルモン療法+化学療法、場合により分子標的薬も併用
ホルモン受容体陽性・HER2陽性
約8%のタイプで、以下の治療を組み合わせます:
- ホルモン療法
- 抗HER2薬
- 化学療法
ホルモン受容体陰性・HER2陽性
約8%のタイプで、以下の治療を行います:
- 抗HER2薬
- 化学療法
トリプルネガティブ
約15%のタイプで、化学療法が標準治療です:
- アンスラサイクリン系+タキサン系の多剤併用療法
- PD-L1陽性の場合は免疫チェックポイント阻害薬も併用
- BRCA変異陽性の場合はPARP阻害薬も選択肢
薬物療法の投与期間と副作用
薬物療法の投与期間は薬剤によって異なります:
- 化学療法:数カ月から半年程度
- 抗HER2薬:1年間(トラスツズマブなど)
- ホルモン療法:5~10年間が標準的
- CDK4/6阻害薬:2年間(アベマシクリブ術後補助療法)
主な副作用と対策
薬物療法の副作用は薬剤により異なります:
- ホルモン療法薬:ほてり、関節痛、骨密度低下など更年期様症状
- 化学療法薬:脱毛、吐き気、血液毒性、口内炎など
- 分子標的薬:薬剤ごとに特有の副作用(発疹、下痢、心機能障害など)
最近では副作用を予防・軽減する薬剤も開発されており、特に吐き気や嘔吐に対する制吐薬の進歩により、化学療法の忍容性は改善しています。
効果予測因子の重要性
現在の乳がん治療では、「効果予測因子」が最も重要とされています。これは、特定の治療法に対してどの程度効果が期待できるかを予測する指標です。
代表的な効果予測因子には以下があります:
- ホルモン受容体:ホルモン療法の効果を予測
- HER2:抗HER2薬の効果を予測
- BRCA1/2変異:PARP阻害薬の効果を予測
- PD-L1発現:免疫チェックポイント阻害薬の効果を予測
- PIK3CA変異:AKT阻害薬の効果を予測
これらの検査により、患者さん一人ひとりに最も適した治療法を選択する個別化医療が可能になっています。
2025年の治療薬開発動向
2025年現在、乳がん治療薬の開発は活発に進められています。特に注目される分野は以下の通りです:
抗体薬物複合体(ADC)の進歩
抗体と抗がん剤を結合させたADCの開発が進んでおり、より効果的でありながら副作用を軽減した治療が可能になりつつあります。
バイオマーカーの活用
液体生検や循環腫瘍DNA(ctDNA)の検出技術が向上し、治療効果の予測や再発のモニタリングが容易になることが期待されています。
免疫療法の拡大
トリプルネガティブ乳がん以外のサブタイプでも免疫療法の有効性が検討されており、より多くの患者さんに恩恵をもたらす可能性があります。