前立腺がんにおけるPSA監視療法とは
前立腺がんに対する治療選択において、すべてのがんが積極的な治療を必要とするわけではありません。特に早期発見された低リスクの前立腺がんでは、すぐに手術や放射線治療を行わず、定期的にPSA(前立腺特異抗原)の数値を計測しながら慎重に経過を見守る方法が注目されています。この治療法は「PSA監視療法」と呼ばれ、前立腺がん治療における重要な選択肢の一つです。
監視療法は単なる放置ではありません。定期的な検査によって病状の変化を注意深く観察し、必要に応じて適切なタイミングで積極的な治療に移行することを前提とした、計画的な治療戦略です。
無治療経過観察が選択される背景
PSA検診の普及により、日本でも早期がんの診断率が大幅に増加しています。国立がん研究センターがん情報サービスによると、前立腺がんは2023年の男性がんの第一位となりました。しかし、早期に発見されるがんの中には、身体への負担が大きい侵襲的治療が必要でないケースも多く含まれています。
問題は、手術や放射線治療など、身体にダメージを与える治療が本当に必要でないかどうかを判断する決定的な基準がまだ確立されていないという点にあります。そのため、一定の基準に基づいて無治療で経過を追い、本当に治療が必要と判断されるまで監視する方法が提案され、日本では「PSA監視療法」と名づけられています。
監視療法の適応基準
監視療法の対象となるのは、以下の条件を満たす患者さんです。
- PSA値が10ng/mL以下
- グリーソンスコア6以下
- 臨床病期がT1~T2
- 生検で採取した検体のうち陽性が2本以下
2023年版前立腺がん診療ガイドラインでは、超低リスクと低リスク、中間リスクの一部に監視療法の適応があると定められています。高齢の患者さんで、がんの根治を目指すよりも負担の少ない治療を希望する場合は、これらの基準よりも範囲が広がることもあります。
PSA監視療法の具体的なフォローアップ方法
監視療法では、定期的な検査によって病状の変化を把握します。具体的には、直腸診を6カ月ごとに行い、PSA値を初めの2年は3カ月ごと、以降は6カ月ごとに測定します。
生検については、1年目、4年目、7年目、10年目に実施し、以降は5年ごとに行うのが一般的です。生検前にはMRI検査を行うこともあります。PSA値が倍になる時間(PSA倍加時間)が2年以上の場合は監視療法を継続し、それより短くなった場合や生検でがんの進行が確認された場合は、積極的な治療への移行を検討します。
検査スケジュール一覧
検査項目 | 実施頻度 | 備考 |
---|---|---|
PSA検査 | 最初の2年間:3カ月ごと 3年目以降:6カ月ごと |
PSA倍加時間の計算に使用 |
直腸診 | 6カ月ごと | 腫瘍の物理的変化を確認 |
前立腺生検 | 1年目、4年目、7年目、10年目 以降5年ごと |
がんの病理学的変化を評価 |
MRI検査 | 生検前 | 必要に応じて実施 |
監視療法の継続率と治療移行の実態
監視療法の長期成績について、最新の研究データが明らかになっています。PRIAS-JAPANの報告では、2024年2月までに1,302名の患者さんが参加し、初期治療として監視療法を選択した日本人患者さんの予後は良好で、前立腺がん死は1例のみ、10年がん特異生存率は100%でした。
しかし、監視療法の継続率については課題があります。監視療法の継続率は経年的に低下し、10年継続して監視療法を実施しているのは17.4%の患者さんのみでした。これは、5年で40-70%という継続率とも一致する結果です。
現在までの報告をまとめると、監視療法中に約30%の症例で進行を認め、手術などの積極的治療に移行していることが分かっています。ただし、PSA監視療法中に転移をきたすのは非常に少なく、約1%と報告されています。
監視療法のメリットと課題
監視療法の主なメリット
監視療法には以下のような利点があります。
- 積極的治療の開始を遅らせることができる
- 手術や放射線治療による副作用を回避できる
- 過剰な治療を防げる
- 生活の質(QOL)を維持できる
前立腺がんには、早期に見つかり、症状のないまま経過して最終的に死亡の原因とならない「おとなしいがん」が存在することが分かっています。このようながんに対して、監視療法は過剰な治療を避けながら適切な管理を行う有効な方法です。
監視療法の課題と心理的負担
一方で、監視療法には以下のような課題もあります。
- 進行を確認するために定期的な生検が必要
- いつ進行して手術や放射線療法を受けなければならなくなるかという不安
- がんがあると分かっていながら治療しないことの精神的負担
これらの障害により、世界中でPSA監視療法は患者さんにあまり好まれていないのが現状です。心理的な不安を軽減するためには、医師との十分なコミュニケーションと、監視療法に対する正しい理解が重要です。
日本における監視療法の普及状況
2023年の調査では、予後良好中間リスク以下の前立腺がん患者さんに対して選択される治療方法の割合は、監視療法12.5%、手術40%、放射線療法30%、ホルモン療法5%という結果でした。この結果は13年前の調査とほぼ同様で、日本では未だに監視療法が十分に普及していないことが明らかになっています。
監視療法が普及しない背景には、患者さん側の要因として監視療法に対する知識や理解の不足があり、医師側の要因としては、患者さんへの説明に時間を要し、丁寧な外来フォローが必要にも関わらず、保険診療における適切な評価が不十分であることが指摘されています。
医師の心理的負担と判断の難しさ
PSA監視療法があまり普及しないもう一つの原因は、医師にとって「がんがあるのに治療しない」という判断をすることの心理的負担にあります。この判断は医師にとって難しく、慎重な検討が必要です。
しかし、副作用の少ない内服薬の開発など、より優れたホルモン療法が登場すれば、PSA監視療法の形も変化してくると考えられます。放置のような形ではなく、「必要な治療を受けている」という心理的安心感があり、副作用がないのであれば、長期間にわたって緩やかな治療を続けていくことが可能になるかもしれません。
フォーカルセラピーという新しい選択肢
近年、監視療法と根治的治療の中間に位置する治療法として「フォーカルセラピー」が注目されています。フォーカルセラピーは、前立腺がん局所療法とも呼ばれ、正常組織を可能な限り残しながら、治療と身体機能温存によるQOL(生活の質)の維持の両立を目的として行います。
2024年5月時点で保険適用されているものは「永久挿入密封小線源療法」に限られますが、先進医療で「高密度焦点式超音波療法(HIFU)」、医師主導治験で「凍結療法」、臨床試験で「マイクロ波凝固療法」が行われており、保険適用を目指した臨床試験が進んでいます。
最新ガイドラインでの位置づけ
2023年10月に発行された前立腺がん診療ガイドライン2023年版では、監視療法の推奨度がさらに高まっています。このガイドラインは、日本泌尿器科学会、日本放射線腫瘍学会、日本医学放射線学会によって作成されており、最新のエビデンスに基づいた治療指針を示しています。
ガイドラインでは、低リスク前立腺がんに対する監視療法の有効性と安全性が確認されており、中間リスクの一部にも適応が拡大されています。これにより、より多くの患者さんが監視療法の対象となる可能性があります。
監視療法を成功させるためのポイント
監視療法を成功させるためには、以下のポイントが重要です。
- 適切な患者選択:リスク分類に基づいた慎重な適応判断
- 定期的なフォローアップ:決められたスケジュールに従った検査の実施
- 患者さんとの十分なコミュニケーション:不安の軽減と理解の促進
- 治療移行のタイミングの適切な判断:進行の兆候を見逃さない
- 心理的サポート:精神的負担を軽減するためのケア
将来の展望
前立腺がんの監視療法は、今後さらに発展していくと考えられます。MRI技術の向上により、より精密な画像診断が可能になり、生検の頻度を減らしつつ正確な病状把握ができるようになる可能性があります。
また、血液中のがん細胞やDNAを検出するリキッドバイオプシーなどの新しい技術により、より負担の少ない方法でがんの進行を監視できるようになることも期待されています。