はじめに:BRCA遺伝子変異とは
BRCA1およびBRCA2遺伝子は、私たちの体内で重要な役割を担う遺伝子です。これらの遺伝子に病的な変異があると、遺伝性乳がん・卵巣がん症候群(HBOC: Hereditary Breast and Ovarian Cancer)と診断されます。現在、日本人女性は生涯のうち約11%が乳がんを、約1%が卵巣がんを発症するとされていますが、BRCA遺伝子に変異をお持ちの方では、これらのがんを発症するリスクが一般の方よりも高くなることが知られています。
BRCA遺伝子変異が見つかった場合、患者さんは様々な選択肢について検討することになります。2025年現在の最新の医学的知見に基づいて、BRCA遺伝子変異が判明した際に利用できる治療選択肢について詳しく解説いたします。
BRCA1・BRCA2遺伝子変異の発症リスク
BRCA遺伝子変異をお持ちの方の具体的な発症リスクについて、最新の研究データをご紹介します。
乳がんの発症リスク
BRCA遺伝子変異をお持ちの方では、80歳までに乳がんを発症する確率が約70%とされています。これは一般の日本人女性(約11%)と比較して、非常に高い数値です。しかし、重要なことは100%発症するわけではないということです。
卵巣がんの発症リスク
卵巣がんの生涯発症危険率は、BRCA1遺伝子変異では36~63%、BRCA2遺伝子変異では10~27%とされています。また、最新の研究では、BRCA遺伝子変異が東アジアに多い胃がん、食道がん、胆道がんの発症リスクも高めることが明らかになっています。
がんの種類 | BRCA1変異 | BRCA2変異 | 一般人口 |
---|---|---|---|
乳がん(女性) | 約70% | 約70% | 約11% |
卵巣がん | 36-63% | 10-27% | 約1% |
乳がん(男性) | 1-2% | 6-8% | 0.1% |
前立腺がん | 約20% | 約20% | 約10% |
BRCA遺伝子変異判明後の主要な選択肢
BRCA遺伝子変異が判明した場合、患者さんには複数の選択肢があります。それぞれの選択肢について、メリットとデメリットを含めて詳しく説明いたします。
1. リスク低減手術(予防的手術)
リスク低減手術は、がんが発症する前に予防的に乳房や卵巣・卵管を切除する手術です。2020年4月から、すでに乳がんまたは卵巣がんを発症している患者さんの場合、健康保険が適用されるようになりました。
リスク低減乳房切除術(RRM)
健康な乳房を予防的に切除する手術です。2022年版の乳癌診療ガイドラインでは、BRCA病的バリアントをもつ乳がん未発症者に対して、両側リスク低減乳房切除術が弱く推奨されています。しかし、乳がんは適切なサーベイランス(検診)によって早期発見できることが多いため、実際に予防的乳房切除を選択される方は多くないのが現状です。
リスク低減卵管卵巣摘出術(RRSO)
卵巣と卵管を予防的に切除する手術で、特に推奨度が高いとされています。通常、腹腔鏡下手術で行われ、数か所を小さく切開して卵巣と卵管を切除します。この手術により、卵巣がんの発症を大幅に予防でき、全生存率の向上も臨床研究で証明されています。また、卵巣と卵管を切除することで、乳がんの発症率も下がることがわかっています。
ただし、手術後の10年間に約5%の確率で腹膜がんが発症する可能性があることも知っておく必要があります。
2. サーベイランス(定期検診による早期発見)
リスク低減手術を希望しない、または何らかの事情により受けられない場合には、適切なサーベイランスを実施します。BRCA遺伝子変異をお持ちの方に特化した検診プログラムが組まれ、早期発見に努めます。
乳がんのサーベイランス
- 月1回の自己検診
- 年1回のマンモグラフィ検査
- 年1回の乳房MRI検査(保険適用)
- 医師による定期的な触診
卵巣がんのサーベイランス
- 年2回の経腟超音波検査
- 年2回の血清CA125測定
- 定期的な婦人科受診
3. 化学的予防
薬物を用いてがんの発症リスクを下げる方法です。現在、BRCA遺伝子変異をお持ちの方の乳がん予防に対するタモキシフェンの有効性について研究が進められています。また、低用量経口避妊薬(OC)による卵巣がん発症リスクの低減効果についても検討されています。
4. 遺伝カウンセリングと心理的サポート
BRCA遺伝子変異の診断は、患者さんとご家族にとって心理的な負担となることがあります。専門的な知識を持つ認定遺伝カウンセラーや臨床遺伝専門医による遺伝カウンセリングを受けることで、適切な情報提供と心理社会的支援を受けることができます。
遺伝カウンセリングで提供される内容
- HBOCという疾患の正確な理解
- 遺伝的リスクの説明
- 各選択肢のメリット・デメリット
- 家族への影響と対応方法
- 心理的サポートと不安の軽減
- 社会的資源の紹介
BRCA1とBRCA2の違いによる治療戦略
BRCA1とBRCA2では、発症するがんの特徴が異なるため、それぞれに応じた対策が重要です。
BRCA1遺伝子変異の特徴
BRCA1遺伝子変異による乳がんは、約70%がトリプルネガティブ乳がんとなります。このタイプの乳がんは、ホルモン受容体とHER2がともに陰性で、治療選択肢が限られる傾向があります。主に抗がん薬による治療が中心となり、投与方法やスケジュール、副作用の面で負担が大きくなることがあります。
BRCA2遺伝子変異の特徴
BRCA2遺伝子変異による乳がんは、約70%がホルモン受容体陽性・HER2陰性のタイプです。この場合、抗がん薬だけでなく、ホルモン療法(内分泌療法)も選択肢となるため、治療の幅が広がるというメリットがあります。
最新の治療薬:PARP阻害薬の活用
2025年現在、BRCA遺伝子変異をお持ちの患者さんには、PARP阻害薬という分子標的治療薬が利用できます。PARP阻害薬は、DNAの修復に関わるタンパク質「PARP」の働きを妨げる薬剤で、BRCA1またはBRCA2遺伝子の変異を持つがん細胞を標的として破壊する作用があります。
現在、乳がん、卵巣がん、前立腺がん、膵がんの患者さんに対して保険適用されており、BRCA遺伝子変異が確認されれば効果を示す可能性が期待されます。
家族への影響と対応
BRCA遺伝子変異は、性別を問わず親から子へ50%の確率で遺伝します。そのため、診断を受けた方のご家族も遺伝子検査を受けるかどうかを検討することになります。
血縁者への対応
- 血縁者向け遺伝子検査の提供(自費診療)
- 家族全体での遺伝カウンセリング
- 遺伝情報の開示に関する慎重な検討
- 家族の意思を尊重した情報提供
費用と保険適用について
2020年4月から、特定の条件を満たす乳がん・卵巣がんの患者さんについて、HBOCの診断からリスク低減手術などの治療まで保険適用となりました。
保険適用となる条件
- 45歳以下で乳がんを発症
- 60歳以下でトリプルネガティブ乳がんを発症
- 両側または片側に2個以上の原発乳がんを有する
- 男性乳がん
- 乳がん診断時に卵巣がん・卵管がんの既往がある
保険適用の場合、BRCA遺伝子検査の費用は約2~6万円(1~3割負担)となり、高額療養費制度の対象となります。リスク低減手術についても、これまで自費診療で100万円程度だったものが、保険適用により自己負担が大幅に軽減されます。
日常生活での注意点
BRCA遺伝子変異をお持ちの方が日常生活で気をつけるべき点についてご説明します。
生活習慣の改善
- 禁煙:喫煙は様々ながんのリスクを高めます
- 適度な運動:定期的な運動は免疫力向上に効果的です
- バランスの良い食事:抗酸化作用のある食品を積極的に摂取
- 適正体重の維持:肥満はがんリスクを高める要因です
- アルコールの制限:過度な飲酒は避けましょう
定期的な自己検診
月1回の乳房自己検診を習慣化し、異常を感じた場合は迷わず医療機関を受診することが重要です。また、定期的な医療機関での検診も欠かさず受けるようにしましょう。
意義不明変異(VUS)への対応
BRCA遺伝子検査の結果、VUS(Variant of Uncertain Significance:意義不明変異)が検出される場合があります。VUSは現時点では病的意義が不明な変異であり、がん発症のリスクが判断できないため、通常の予防的管理は行われません。
VUSが検出された場合は、診療関係者と十分に協議したうえで、定期的な経過観察や将来的な遺伝子検査技術の進歩を待つという選択肢があります。
医療機関の選択と連携体制
BRCA遺伝子変異に関する診療を受ける際は、適切な医療機関を選択することが重要です。日本遺伝性乳癌卵巣癌総合診療制度機構(JOHBOC)の認定施設や、遺伝カウンセリング加算の施設基準を満たしている医療機関での受診をお勧めします。
また、遺伝カウンセリング体制が整っていない医療機関でも、他施設との連携により適切なカウンセリングを受けることが可能です。
将来への展望
BRCA遺伝子変異に関する研究は日々進歩しており、新しい治療法や予防法の開発が期待されています。特に、個別化医療の観点から、患者さん一人ひとりの遺伝子変異の特徴に応じたより精密な治療が可能になることが期待されています。
また、遺伝子治療技術の発展により、将来的には根本的な治療法が確立される可能性もあります。
まとめ
BRCA1・BRCA2遺伝子変異が判明した場合、患者さんには複数の選択肢があります。リスク低減手術、サーベイランス、化学的予防、遺伝カウンセリングなど、それぞれにメリットとデメリットがあり、患者さんの価値観やライフスタイルに応じて最適な選択肢を選ぶことが重要です。
何よりも大切なのは、十分な情報を得たうえで、医療チームと協力しながら自分に最も適した治療戦略を選択することです。遺伝カウンセリングを通じて専門的なサポートを受けながら、納得のいく治療選択を行いましょう。
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## 参考文献・出典情報
1. [遺伝性乳がん・卵巣がんとは 遺伝子検査と予防的治療、発症後の治療は - がんプラス](https://cancer.qlife.jp/ovary/ovary_feature/article3732.html)
2. [遺伝性乳癌卵巣癌の原因遺伝子であるBRCA2遺伝子の日本人に特有の病的バリアントを発見|国立がん研究センター](https://www.ncc.go.jp/jp/information/pr_release/2023/0418/index.html)
3. [10万人以上を対象としたBRCA1/2遺伝子の14がん種を横断的解析―東アジアに多い3がん種へのゲノム医療の可能性― | 国立研究開発法人日本医療研究開発機構](https://www.amed.go.jp/news/release_20220415-02.html)
4. [遺伝性乳がん卵巣がんを知ろう!- JOHBOC](https://johboc.jp/guidebook_g2022/q29/)
5. [BRCA遺伝子について | 遺伝性乳がん | 乳がん.jp](https://www.nyugan.jp/heritability/diagnosis/brca/)
6. [遺伝性乳がん・卵巣がんのリスクとなるBRCA2遺伝子バリアントの新規機能解析法を開発 | 国立がん研究センター](https://www.ncc.go.jp/jp/information/pr_release/2020/0522/index.html)
7. [総説3 BRCA遺伝学的検査とサーベイランスについて | 検診・画像診断 | 乳癌診療ガイドライン2022年版](https://jbcs.xsrv.jp/guideline/2022/k_index/s3/)
8. [乳がん・卵巣がんの遺伝子検査ってどうやるの?|遺伝性乳がん卵巣がん(HBOC)](https://shiritai-hboc.jp/genetic_test/)
9. [BRCA遺伝子の変化とは](https://gan-genome.jp/treat/brca.html)
10. [総説5 遺伝性乳癌と遺伝学的検査,遺伝カウンセリング | 疫学・予防 | 乳癌診療ガイドライン2022年版](https://jbcs.xsrv.jp/guideline/2022/e_index/s5/)