
KRAS遺伝子変異とは何か
こんにちは。がん専門のアドバイザー、本村ユウジです。
大腸がんの治療において、近年、遺伝子検査に基づいた個別化医療が標準的な治療として確立されています。
その中でも特に重要なのがKRAS遺伝子変異の検査です。KRAS遺伝子は、細胞の増殖や成長をコントロールする重要な役割を担う遺伝子の一つです。
正常な細胞では、KRAS遺伝子によって作られるKRASタンパク質は、細胞の増殖を促すアクセルのような働きをしています。
このアクセルは、必要な時だけ作動し、不要な時には自動的にオフになる仕組みを持っています。具体的には、GTPという物質と結合すると活性化され、細胞増殖のシグナルを伝達します。その後、GTP分解酵素(GTPase)の働きでGTPがGDPに分解されると、KRASタンパク質は不活性化され、シグナル伝達が停止します。
しかし、KRAS遺伝子に変異が起こると、このGTPase機能が低下してしまいます。その結果、KRASタンパク質は常に活性化された状態となり、細胞増殖のシグナルを送り続けることになります。
これは、アクセルが常に踏まれている状態に例えられ、がん細胞の制御できない増殖につながります。
大腸がんにおけるKRAS遺伝子変異の頻度
大腸がん患者さんの約45〜50%にKRAS遺伝子変異が認められるとされています。KRAS遺伝子の変異が起こる場所(部位)にはいくつかのパターンがあり、特に変異が集中している領域を「ホットスポット」と呼びます。
大腸がんで見られるKRAS変異の約90%は、エクソン2という領域に存在します。その内訳を見ると、コドン12の変異が約70%、コドン13の変異が約20%を占めています。
コドン12の中でも、特定のアミノ酸への変異パターンが知られており、G12D(グリシンからアスパラギン酸への変異)、G12V(グリシンからバリンへの変異)、G12C(グリシンからシステインへの変異)などが代表的です。
近年の研究では、KRAS変異だけでなく、同じRAS遺伝子ファミリーに属するNRAS遺伝子の変異も重要であることが分かってきました。NRAS変異は大腸がんの約3〜5%に認められ、KRAS変異とは原則として同時には起こらない(相互排他的)とされています。
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がん専門アドバイザー 本村ユウジ
抗EGFR抗体薬の働きと効果
抗EGFR抗体薬は、セツキシマブ(商品名:アービタックス)とパニツムマブ(商品名:ベクティビックス)という2つの薬剤が大腸がん治療に使用されています。これらの薬は、EGFR(上皮成長因子受容体)と呼ばれる細胞表面のタンパク質を標的とする分子標的薬です。
EGFRは、大腸がんの約80%で高発現が認められる受容体です。細胞の外から増殖因子が結合すると、EGFRが活性化され、細胞内へシグナルが伝達されます。このシグナル伝達経路は、EGFR→RAS(KRAS、NRASを含む)→RAF→MEKという順序で下流へと情報が伝わっていきます。
抗EGFR抗体薬は、EGFRに直接結合することで、増殖因子がEGFRに結合できないようにブロックします。
これにより、細胞増殖のシグナル伝達を遮断し、がん細胞の増殖を抑制します。大腸がんの切除不能・進行再発例において、化学療法との併用により、生存期間の延長が期待できることが複数の臨床試験で確認されています。
KRAS遺伝子変異と抗EGFR抗体薬の効果予測
抗EGFR抗体薬の効果を考える上で、KRAS遺伝子変異の有無が極めて重要です。2000年代後半以降の臨床試験により、KRAS遺伝子に変異がある患者さんでは、抗EGFR抗体薬による治療効果が得られないことが明らかになりました。
この理由は、シグナル伝達経路の位置関係にあります。EGFRは上流に位置し、KRASは下流に位置しています。KRAS遺伝子に変異があると、EGFRの働きをブロックしても、その下流にあるKRASが常に活性化されているため、細胞増殖のシグナルは止まりません。例えるなら、水道の蛇口(EGFR)を締めても、途中の配管(KRAS)が常に開いた状態になっているため、水(シグナル)が流れ続けるようなものです。
逆に、KRAS遺伝子が野生型(変異がない)の患者さんでは、抗EGFR抗体薬が効果的に働きます。複数の大規模臨床試験の解析結果から、KRAS野生型の患者さんでは、抗EGFR抗体薬の併用により、無増悪生存期間や全生存期間の延長が認められています。
当初はKRASエクソン2(コドン12、13)の変異のみが検査対象でしたが、2013年以降の研究で、KRASエクソン3、エクソン4、さらにNRASエクソン2、3、4の変異を持つ患者さんでも抗EGFR抗体薬の効果が期待できないことが分かりました。このため、2015年4月から日本でもRAS遺伝子検査(KRAS/NRAS遺伝子検査)が保険適用となり、現在では治療前にRAS野生型であることを確認することが標準となっています。
RAS遺伝子検査のタイミングと方法
RAS遺伝子検査は、大腸がんの薬物療法を開始する前に実施することが推奨されています。特に、最初の薬物療法を開始する前に、MSI検査、RAS遺伝子検査、BRAF遺伝子検査を行い、治療方針を決定します。HER2検査も同じタイミングで実施することが適切とされています。
検査に使用する検体は、原発巣(大腸がんが最初に発生した場所)でも遠隔転移巣でも構いません。通常、大腸がんの診断時や手術時に採取された腫瘍組織を用いて検査が行われます。検査方法としては、ダイレクトシークエンス法やAllele-specific PCR法などが推奨されています。
RAS遺伝子検査は、原則として1回実施すれば十分とされています。ただし、最近の研究では、薬物療法後に遺伝子変異の状態が変化する可能性があることも報告されています。変異型から野生型に変化した患者さんの約1割では、抗EGFR抗体薬を含む治療の効果が得られる可能性があることが分かってきました。
組織検体を用いた検査が困難な場合には、血液を検体とするリキッドバイオプシーという方法も保険適用されています。血液中に流れ出た腫瘍由来のDNA(ctDNA)を解析することで、RAS遺伝子変異を検出できます。
RAS遺伝子検査の費用
RAS遺伝子検査は健康保険の適用対象となっており、実際の自己負担額は保険の負担割合によって異なります。悪性腫瘍遺伝子検査としての費用は、検査項目数や検体処理方法によって異なりますが、10割負担で25,000円〜180,000円程度とされています。
3割負担の患者さんの場合、実際の支払い額はその3分の1となります。なお、がん治療では高額療養費制度が適用されるため、月々の医療費が一定の限度額を超えた場合、超過分が払い戻される仕組みがあります。限度額適用認定証を事前に取得しておくと、医療機関の窓口での支払いを限度額までに抑えることができます。
標準治療が終了した後や終了が見込まれる場合には、がん遺伝子パネル検査を受けることもできます。がん遺伝子パネル検査では、100種類以上のがん関連遺伝子を一度に調べることができ、検査費用は56万円(3割負担で約16.8万円)となっています。
KRAS遺伝子変異と治療選択
RAS遺伝子検査の結果に基づいて、大腸がんの薬物療法が選択されます。RAS野生型(変異がない)の患者さん、特に左側大腸がんの場合には、一次治療として化学療法(FOLFOXまたはFOLFIRI)に抗EGFR抗体薬を併用する治療が推奨されます。
一方、RAS変異型の患者さん、または右側大腸がんの患者さんでは、抗EGFR抗体薬の効果が期待できないため、ベバシズマブ(血管新生阻害薬)を併用した治療が選択されます。ベバシズマブは、RAS遺伝子の変異の有無に関係なく効果を発揮することが確認されています。
切除不能・進行再発大腸がんに対して無治療の場合、生存期間は約8〜12ヶ月とされています。しかし、化学療法の進歩により、FOLFOX療法やFOLFIRI療法では約20ヶ月まで延長しました。さらに、分子標的薬(ベバシズマブ、セツキシマブ、パニツムマブ)との併用により、生存期間の中央値は30ヶ月を超えるまでに改善しています。
KRAS G12C変異に対する新しい治療法
KRAS遺伝子は長年「治療標的にならない(undruggable)」と考えられてきましたが、近年の研究により、特定の変異に対する治療薬の開発が進んでいます。
特に注目されているのがKRAS G12C変異を標的とした薬剤です。G12C変異は、大腸がん全体の約3〜4%に認められる比較的まれな変異ですが、この変異を持つがん細胞に対して選択的に作用する薬剤が開発されました。
ソトラシブ(商品名:ルマケラス)は、KRAS G12C変異タンパク質に不可逆的に結合し、その活性を阻害する薬剤です。2021年にアメリカで、2022年に日本で非小細胞肺がんに対して承認され、2025年9月には日本でも大腸がんへの適応が承認されました。
大腸がんにおいては、ソトラシブ単剤では十分な効果が得られないことが分かっていました。これは、EGFR経路の再活性化により耐性が生じるためです。そこで、抗EGFR抗体薬であるパニツムマブとの併用療法が開発されました。
CodeBreaK300試験という国際共同第3相試験では、KRAS G12C変異陽性の切除不能進行・再発大腸がん患者さん160人を対象に、ソトラシブ(960mg)とパニツムマブの併用療法と標準治療を比較しました。その結果、併用療法群では無増悪生存期間が有意に延長することが示されました。有害事象としては、抗EGFR抗体薬に特徴的な皮膚障害、低マグネシウム血症、消化器毒性などが認められましたが、管理可能な範囲とされています。
アダグラシブ(商品名:Krazati)も、KRAS G12C阻害薬として開発されており、2022年12月にアメリカで承認されています。現在、大腸がんに対しても臨床試験が進行中です。
その他のKRAS変異に対する治療開発
KRAS G12C以外の変異に対する治療薬の開発も急速に進んでいます。大腸がんで頻度の高いG12D変異、G12V変異に対しても、複数の薬剤が開発段階にあります。
KRAS G12D変異は、膵臓がんの約40%、大腸がんの約15%に認められる比較的頻度の高い変異です。MRTX1133という薬剤は、KRAS G12D変異タンパク質を選択的に阻害する薬剤として開発が進められています。また、ASP3082という蛋白質分解誘導薬は、KRAS G12Dタンパク質をユビキチン・プロテアソーム系を介して分解させるという新しい作用機序を持つ薬剤で、2024年の臨床試験結果では有望な抗腫瘍効果が報告されています。
さらに、すべてのG12変異をターゲットとするG12X阻害剤(RMC-6236)や、全KRAS変異を対象とするSOS1阻害剤(BI3405)など、より広範なKRAS変異に効果を示す可能性のある薬剤の開発も進行中です。
これらの新薬は、従来は治療選択肢が限られていたKRAS変異型大腸がんの患者さんに、新たな治療の可能性をもたらすものとして期待されています。
KRAS遺伝子変異と予後
KRAS遺伝子変異は、治療薬の選択だけでなく、予後(病気の経過や見通し)にも影響を与える可能性が研究されています。
複数の臨床試験の解析から、KRAS変異の中でもG12C変異を持つ患者さんは、他のKRAS変異を持つ患者さんと比べて生存期間が短い傾向があることが報告されています。また、コドン12の特定の変異、特にG12R変異では、無再発生存期間の短縮との関連が強いことを示す研究結果もあります。
一方で、G13D変異については、他のKRAS変異とは異なる特徴を持つ可能性が指摘されています。一部の研究では、G13D変異を持つ患者さんに対しては、セツキシマブを含む治療により生存期間の延長が得られる可能性が示唆されていますが、現時点では確立した見解には至っていません。
NRAS変異を持つ患者さんは、KRAS野生型、BRAF野生型、NRAS野生型の患者さんと比較して予後不良であることが報告されています。抗EGFR抗体薬に対する反応も乏しく、奏効率は10%未満とされています。
BRAF遺伝子変異(特にV600E変異)は、大腸がん全体の約5〜10%に認められ、KRAS変異とは相互排他的(同時には起こらない)です。BRAF変異を持つ大腸がんは極めて予後不良であることが知られており、右側結腸原発、低分化型、腹膜播種が多いなどの臨床病理学的特徴があります。BRAF変異型大腸がんに対しては、FOLFOXIRI療法とベバシズマブの併用、または特定のBRAF阻害薬を含む治療が推奨されています。
個別化医療としてのRAS遺伝子検査
大腸がん治療において、RAS遺伝子検査は個別化医療(がんゲノム医療)の中心的な役割を果たしています。同じ大腸がんという診断であっても、遺伝子レベルでは患者さんごとに異なる特徴を持っています。
従来の治療では、大腸がんと診断されれば、同じ治療が選択されていました。しかし、遺伝子検査によって個々のがんの特徴を把握することで、その患者さんに最も適した治療を選択できるようになりました。これにより、効果が期待できない薬剤による無用な副作用を避けることができ、医療費の無駄も防げます。
現在、大腸がんの標準治療では、MSI検査、RAS/BRAF遺伝子検査、HER2検査などが保険適用で実施できます。これらの検査結果に基づいて、分子標的薬や免疫チェックポイント阻害薬など、最適な治療法が選択されます。
標準治療が終了した後には、がん遺伝子パネル検査により、より多くの遺伝子異常を調べることができます。ただし、がん遺伝子パネル検査で遺伝子変異が見つかっても、すべての患者さんに対応する治療薬があるわけではありません。日本では薬剤到達率は3〜10%とされていますが、研究開発が進むことで、今後はより多くの患者さんが個別化医療の恩恵を受けられるようになると期待されています。
今後の展望
KRAS遺伝子変異に対する治療開発は、現在、急速に進展している分野です。かつては「治療標的にならない」と考えられていたKRAS変異ですが、G12C阻害薬の成功により、その他の変異に対する薬剤開発にも道が開かれました。
特に注目されるのは、併用療法の開発です。KRAS阻害薬単剤では耐性が生じやすいことから、EGFR阻害薬、MEK阻害薬、SHP2阻害薬、SOS1阻害薬など、複数の薬剤を組み合わせることで、より効果的かつ持続的な治療効果を得る試みが進められています。
また、リキッドバイオプシー技術の進歩により、血液検査で遺伝子変異の状態を継続的にモニタリングすることが可能になりつつあります。治療中の遺伝子変異の変化を追跡することで、最適なタイミングで治療方針を変更できるようになることが期待されています。
大腸がん治療は、これまでの「すべての患者さんに同じ治療」から、「患者さん一人ひとりの遺伝子の特徴に合わせた治療」へと大きく変化しています。RAS遺伝子検査をはじめとする各種バイオマーカー検査は、この個別化医療を実現する上で不可欠な検査となっています。
参考文献・出典情報
1. 武田薬品工業 - 大腸がんサポートnavi 個別化医療
2. 日本外科系連合学会誌 - 大腸癌の分子診断に基づく治療の現状と展望
3. 日本臨床腫瘍学会 - 大腸がん患者におけるRAS遺伝子変異の測定に関するガイダンス
4. 大腸癌研究会 - KRAS G12C変異陽性大腸癌に対するソトラシブ+パニツムマブ併用療法
5. Active Motif - KRASの研究と薬剤開発の戦略
6. 日経メディカル - KRAS G12D変異陽性進行固形癌にASP3082は有望