はじめに
がんの治療において、従来は手術後に抗がん剤治療を行うことが一般的でした。しかし近年、手術前に抗がん剤や放射線治療を行う「術前療法(ネオアジュバント療法)」が多くのがん種で標準的な治療選択肢となっています。
「なぜ手術を急がないのか」「早く切り取った方が良いのではないか」といったご質問をいただくことがありますので、手術前に抗がん剤治療を提案される理由と、その目的について詳しく解説します。
術前化学療法(ネオアジュバント療法)とは
術前化学療法とは、手術の前に抗がん剤による治療を行うことです。英語では「ネオアジュバント化学療法(NAC:Neoadjuvant Chemotherapy)」と呼ばれます。手術前に薬物治療を行うことで、がんの病巣を縮小させたり、微小転移のリスクを減らしたりすることを目的としています。
従来の手術後に行う補助化学療法(アジュバント療法)に対して、手術前に行う治療という意味で「ネオ(新しい)」という言葉が使われています。最近では、抗がん剤の進歩により、手術前の治療でがんが完全に消失することもあることから、手術の補助的な治療ではなく、「一次全身療法(PST:Primary Systemic Treatment)」と呼ぶ考え方も広がっています。
なぜ手術の前に抗がん剤治療を行うのか
1. がんの縮小による手術範囲の縮小
術前化学療法の最も重要な目的の一つは、がんを小さくすることです。大きながんが縮小することで、より小さな範囲で手術を行うことが可能になります。これを「縮小手術」と呼びます。
例えば乳がんの場合、腫瘍が大きく乳房全摘出が必要と判断されていた患者さんでも、術前化学療法によってがんが縮小すれば、乳房温存手術が可能になることがあります。食道がんや直腸がんなどでも、周囲臓器への浸潤が改善し、より機能を温存した手術が可能になります。
2. 手術を可能にするダウンステージング効果
診断時に手術が不可能と判断された進行がんでも、化学療法が効果を示すことで手術可能な状態まで改善することがあります。これを「ダウンステージング」と呼びます。
特に肝転移を伴う大腸がんや、局所進行胃がんなどで、この効果が期待されています。手術不可能な状態から手術可能な状態へと転換する治療は「コンバージョン療法(Conversion therapy)」と呼ばれ、根治的治療へと導く重要な治療戦略となっています。
3. 微小転移の早期治療
がんは診断時に、画像検査では見つからないほど小さな転移(微小転移)が存在している可能性があります。手術でがんを取り除いても、これらの微小転移が残っていると、後に再発の原因となります。
術前化学療法を行うことで、手術前からこれらの微小転移に対して治療を開始できます。早期に全身治療を開始することで、微小転移のリスクを減らし、治療成績の向上が期待されます。
4. 薬物療法の効果判定
術前化学療法には、使用する抗がん剤の効果を直接確認できるという利点があります。手術後に抗がん剤を使用する場合、がんが取り除かれているため、その薬剤が実際に効いているかどうかを直接確認することはできません。
一方、術前化学療法では、がんが目に見える状態で治療を行うため、腫瘍の大きさの変化を観察することで薬剤の効果を判定できます。効果が不十分な場合は、別の薬剤への変更を検討することも可能です。
病理完全寛解(pCR)の重要性
術前化学療法の効果を評価する重要な指標が「病理完全寛解(pCR:Pathological Complete Response)」です。これは、手術で摘出した組織を顕微鏡で調べた際に、がん細胞が完全に消失している状態を指します。
最新の研究では、術前化学療法でpCRを達成した患者さんは、そうでない患者さんと比較して再発のリスクが大幅に低下することが明らかになっています。トリプルネガティブ乳がんやHER2陽性乳がんでは、pCRを達成した患者さんの再発リスクは約80%も低下するという報告があります。
現在の進歩した化学療法により、乳がんでは60-80%の患者さんでpCRが達成可能とされており、これは治療成績の向上に大きく貢献しています。
術前化学療法が適用される主ながん種
術前化学療法は多くのがん種で標準的な治療選択肢となっています。主な対象がん種と適応について説明します。
がん種 | 主な適応 | 期待される効果 |
---|---|---|
乳がん | 局所進行乳がん、乳房温存希望例 | 乳房温存率向上、pCR達成 |
食道がん | 切除可能進行食道がん | 生存期間延長、局所制御改善 |
直腸がん | T3/T4またはリンパ節転移陽性 | 肛門温存、局所再発率低下 |
膀胱がん | 筋層浸潤性膀胱がん | 生存率改善、膀胱温存の可能性 |
胃がん | 切除不能局所進行がん | 手術可能性向上(コンバージョン) |
肺がん | 切除可能非小細胞肺がん | 再発率低下、生存期間延長 |
手術タイミングの重要性
術前化学療法において、適切な手術タイミングの決定は治療成功の鍵となります。化学療法の効果を4-8週間ごとに評価し、最適なタイミングで手術に移行することが推奨されています。
手術のタイミングが早すぎると化学療法の効果が十分に得られず、遅すぎると合併症のリスクが高まったり、がんの進行の可能性があります。多くの場合、3-6か月の術前化学療法の後に手術が行われますが、がんの種類や患者さんの状態により個別に判断されます。
手術タイミング決定の要因
- 画像検査での治療効果の評価
- 腫瘍マーカーの変化
- 患者さんの全身状態
- 化学療法の副作用の程度
- がんの種類と生物学的特性
術前化学療法の利点とリスク
利点
- がんの縮小による手術範囲の縮小
- 臓器機能の温存(乳房温存、肛門温存など)
- 微小転移の早期治療
- 薬物療法の効果の直接確認
- 手術不可能例の手術可能化
- 病理完全寛解による予後改善
注意すべき点
- 化学療法が効果を示さない場合のがん進行リスク
- 手術の遅れによる精神的負担
- 化学療法の副作用
- 手術合併症のリスク増加の可能性
最新の治療の進歩
免疫チェックポイント阻害薬の併用
従来の化学療法に免疫チェックポイント阻害薬を併用することで、治療効果の向上が期待されています。特に肺がんや悪性黒色腫では、免疫療法併用による病理完全寛解率の向上が報告されています。
個別化医療の進展
がんの遺伝子変異や分子マーカーに基づいた個別化治療が進歩しており、患者さん一人ひとりに最適な術前療法の選択が可能になってきています。
新しい薬剤の開発
分子標的治療薬や新しい化学療法薬の開発により、より効果的で副作用の少ない術前療法が可能になっています。
治療を受ける際の心構え
術前化学療法を提案された患者さんやご家族には、以下の点をご理解いただくことが重要です。
治療期間について
術前化学療法は通常3-6か月の期間を要します。手術までの期間が長く感じられるかもしれませんが、この期間にがんを小さくし、微小転移を治療することで、より良い治療成績が期待できます。
効果の評価
定期的な画像検査や診察により、治療効果を評価します。効果が不十分な場合は、治療方針の変更も検討されますので、担当医との密なコミュニケーションが重要です。
副作用への対処
化学療法には副作用が伴いますが、現在では副作用を軽減する支持療法も充実しています。気になる症状がある場合は、遠慮なく医療チームにご相談ください。
術前化学療法の将来展望
術前化学療法の分野は今後も急速に発展していくことが予想されます。新しい薬剤の開発、個別化医療の進歩、そして治療効果予測マーカーの発見により、より効果的で副作用の少ない治療が可能になっていくでしょう。
また、病理完全寛解を達成した患者さんにおける手術省略の可能性についても研究が進んでおり、将来的には一部の患者さんで手術を回避できる可能性も検討されています。
参考文献・出典
- 乳がん.jp - 術前薬物療法(PST)/ネオアジュバント療法(NAC)
- 乳がんセミナー - 乳がんの術前・術後薬物療法の概説
- 日本肺癌学会誌 - 肺葉切除後にニボルマブと化学療法によるネオアジュバント療法
- 日経メディカル - ステージIII悪性黒色腫患者に対するネオアジュバント療法
- 術前化学治療で病理学的完全奏功(pCR)が得られた乳がんについて
- 乳がん術前の完全奏効は生存に関連
- GI-pedia - 大腸癌肝転移に対する治療戦略
- がんサポート - ステージⅣでもあきらめない 切除不能進行胃がんに対するコンバージョン手術
- 国立がん研究センター - 切除可能な進行食道がんへの術前DCF療法が新たな標準治療へ
- 患者さんのための乳癌診療ガイドライン2019年版 - 手術前の薬物療法について